Being Kind to Someone

夏期休暇中。
友人とダイアログ・イン・ザ・ダークというイベントに行ったり、ワタリウムナム・ジュン・パイク展にようやく行ったり、別の友人らと車に乗って海に行ったり。
ダイアログ・イン・ザ・ダークはとても面白かったけど、また行くつもりだからここに書いて知人が興味をもってしまうと困るので(あれは見知らぬ人同士で行った方が面白いと思う)、ナム・ジュン・パイク展についてちょっとだけ。
「東と西が分かたれていて決して交わることができない」というキップリングの言葉に対し正反対の位置に立ち、「東と西は(テクノロジーによって)結ばれている」というメッセージの明確な「バイバイ・キップリング」に象徴的なように、パイクの作品はしばしば距離によって隔てられた二つの世界(文化)の繋がりをテーマとする(その代表となるのが今回のワタリウムでは三階に展示されていた「ユーラシアの道」だろう)。
ブラウン管の中から生えた蔦、あるいはぼうっとテレビの中から照らし出す蝋燭、あるいはブラウン管と我々の眼の間に置かれた水槽の向こう側に見えるパイクの(テクノロジーに、あるいは我々に向けられる)眼差しは、ひどく優しい。
テクノロジーに対して驚くほど楽観的(肯定的)なこうしたパイクのスタンスは、けれど、「テクノロジーによって我々は結ばれている」ということを示すのか、あるいは「テクノロジーは(実は既に)我々が結ばれていることを示しだす」と言っているのかが今ひとつはっきりしない。それが顕著に現れるのが木々の間にテレビが生っている「ケージの森」(ジョン・ケージjへのトリビュートであると同時に「木の啓示」の意)で、たぶん僕達の生きるこの世界ではテクノロジーは既にgivenであり、そのレベルで社会的なものと技術的なものはもう分けて考えることなんて出来ないんだろう。
(とは言えふっとだけ気になったのが、ひょっとしたら彼の作品が表象する「結ばれた世界」というのは、 個々の主体が選択できないような形で既に誰かに「結ばれてしまっている社会」なのかもしれない、ということだ。
そしてそれは単純にいいものといえないようなものである気もするのだ)
なんにせよ、夕方にワタリウムを出て、むわっとした夕立の後の空気に包まれても、やたら優しい気持ちになったのだった(そういうのって自己完結的なものなので、残念ながらしばしば表には表れないのだけど)。
 

グラウンド・ゼロと現代建築

グラウンド・ゼロと現代建築

グラウンド・ゼロ跡地を巡っては今も政治的なやり取りが耐えないが(コンペティションをやったのにそれが覆されたりとか)、飯島は本書で歴史的テキストをレファラントにしつつその意義付けを行っていく。
本書の半分を占める、『白鯨』の精神分析批評を通してアメリカの歴史的マクロ構造を分析した第一章「エイハブの脚」では、『白鯨』を後期ラカン
(あるいはポスト構造主義的)言語観のアレゴリーとして捉えつつ、空白のシニフィアンである白鯨それ自体をファントム・リムとして位置づけなおし、アメリカという国家自体が「「ない」はずのものを「ある」と思い込むような」トラウマ的精神病理を抱え込んでいると指摘、「繰り返すようにあの9.11で破壊される前のツインタワーのデザインにどんどん近づいている。というよりも9.11以前のツインタワーへと、まるで録画した古いビデオテープを巻きもどすかのようにして戻っている」(123)、テロ跡地案(フリーダム・タワー)をその象徴として読み解く。
わりとスタンダードな『白鯨』解釈をどこまで(歴史化しながら)アメリカの「マクロ的メンタリティ」に結びつけることが出来るかが肝だったと思うけれど、ビブリオの充実からわりと成功していると思う。ただ本全体としては、タイトルの割に建築の話があまり出てこないのが残念。
個人的にはテロ跡地でのポール・フストの「光のトリビュート」、あるいはダニエル・リベスキンドの跡地案の中の「光のくさび」をナチスドイツにおけるアルベルト・シュペアー「光のカテドラル」及び強制収容所におけるトラックの光に結びつけた「光の恐怖」が興味深かった。確かに初めて見たときから(僕の場合は不勉強のため、シュペアーを知ったほうが後だったのでこちらを初めて見たとき)地上からツインタワーの跡を照らすポール・フストの光と夜空に放たれたシュペアーのサーチライトはあまりに似通っていたのだった。