20060815
翻訳が不安になって某所で色々質問していると早速友人にばれてからかわれる。shintakさまをはじめ、皆さん本当に有り難うございます。
Believer誌のJudith Butlerインタビュー、"Peace is a resistance to the terrible satisfactions of war"読む。こちらも同じ雑誌で大学院の友人(ジェンダー・フェミニズム系ではないけれど、中東に詳しいカルスタ(思想?)専門の優秀なパンカー院生)が翻訳する予定。_Precarious Life_っぽい話だが、「何故見知らぬ他者に対して我々は責任/倫理的関係を持つのか?」という問いに対して「何故そうした問いに答えることが困難になるような形で、メディアは我々の『彼ら』との関係を表象するのか?」と反問を投げ返すのは良かった。
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2006/07
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ただ、自立って、そういうもの(lisbon注:経済的自立)なのかなっていう疑問があります。
歳を取って自分で稼げなくなったらもう自立は出来ないのかって。そうじゃなくって、様々な社会資本を活用して自分で自己決定できればそれは自立ではないのかと思います。逆に金を幾ら持っていても、過労死してしまうような自分の命さえ守れない生き方に、自己決定はあったのか、自立していたのか、なんて思いますね。自分の靴下がどこにあるのかが判らないようなサラリーマンなんて幾らでもいるわけだし、それでいいのかと思います。自己決定、自分らしさを求めるってことに自立はあるんじゃないかと私は考えています
僕の住んでいた藤沢という町は(川崎や横浜に次ぐくらいの)関東でも指折りのホームレス居住地域で、小さい頃には地下道や公園を通るたびそれこそそこら中にホームレスの人たちがいた。当時からだの小さかった僕にとって彼らは正直恐怖の対象だったし(一度駐車場に止めていたうちの車に「住んで」いたこともあったので)、はっきり言って自分とは関係ない人たちだと考えていた。けれど今、学部時代の自転車の旅での無数の出会いを経て、普遍性とか共同体とか、何が人としてcountするかとか、どれだけ遠くの人に語りかけられるかとか、どれだけ遠くの人の声を聞くことができるかとか、そういったことを考えることを仕事にしようとしている今になってようやく、身近なところで見逃していた彼らの声の重要さに気がつき始めた。けれど藤沢市では駅前の再開発に伴いずいぶん前から「保安」と称しホームレスの追い出しに取り掛かっていて、地下道でいつも退屈そうに眠っていた彼らの姿は今はもうない。
どこにねる なぜねる ここにねる