20060812
久しぶりの休日。部屋の掃除とレポートを済ませて、ジムで汗を流す。暑い。
夕食17h45@自宅。新鮮なサンマが手に入ったので三枚におろしてから軽く皮だけ炙ってタタキのようにしてたっぷりの生姜と長ネギと共にいただく。脂が乗っていて、しかも炙ってあるので生臭さが全くなく実に美味。他にはゴーヤの味噌チャンプルー(いい加減チャンプルーは飽きてきたが他にゴーヤの調理方法を知らない)、トマトと玉ネギのサラダ、それから鍋炊きご飯(手間がかかるけど一度鍋炊きの味を覚えると休みの日は炊飯器が使えない)。安いイタリアのワインとオレンジジュースのお手製サングリア。幸せ。
- 作者: ジョン・ファウルズ,小笠原豊樹
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1984/07
- メディア: 新書
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小説は男の目を通じた第一部、女子学生の付けていた日記の形式の第二部を経て、やがて彼らの「共同生活」が凄惨な形で終焉を迎える第三部、そして更なる悲劇を予見させる短い第四部から構成される。作品は人から世界を奪う、その痕跡すら残さないような(アウシュビッツに象徴されるような)圧倒的な暴力性を示しつつ、その背景としての(文化的)階級制度を提示する。中産階級、非教養的、保守的でインポテントなこうした男の姿は今の日本にはわりとその辺にいそうで怖い。
という気持ちを持ちつつ、読みながら痛烈に感じたのは、そうした「加害者」を他者化しない―それは加害者のためではなく、そうして外部化して自分を安全な位置に置くことが、ある種一番タチの悪い権力のあり方だからだ―ことがいかに必要(かつ困難なものである)か、だった。自分がこうした形で暴力を振るうことはおそらくないだろう、という観念と、けれどもそうした位置に何とかして自分を置いてみる(決して心地よいものではないけれど、それでも必要な)想像力。それは勿論監禁を行った加害者に同情するわけではない。けれど、「自分が加害者になりえたかもしれない」(生まれ育った文脈が違えば、その位置に立ったかもしれない)と想像するその力に何らかの共同体の可能性を賭けることは、あまりにリベラルかもしれないけれど、必要なものではないかと思う。