20060811

 
11h40@chez Miya. ゴーヤチャンプルー、オクラの胡麻和え、トマトと玉葱の冷製スープ、冷麦。食べながら無性にビールが飲みたくなる。ウィルキンソンジンジャーエールで代用。無闇に暑い。自転車でどこか遠くの国を走るか、さもなくばプールサイドでラムコークでも飲みながらSF小説が読みたくって仕方ない。よく考えたらさもなくばっていう表現は脅しの時にしか使ったことがない。例:「今すぐにハーゲンダッツさんを買ってきてくれ。さもなくば、人質ごとボカンと行くぞ」。
 

夢みる宝石 (ハヤカワ文庫SF)

夢みる宝石 (ハヤカワ文庫SF)

ということで昨日に引き続きサーカス(と夢)つながりでスタージョン再読。
…というのは嘘で、何だか表紙が新しくなってるから新訳かなーと思って買ったら新装版なだけだった。ハ、ハヤカワの野郎(お世話になった早川書房の方がいるのでおおっぴらには文句が言えないのですが)!この翻訳好きだからいいんですけどね。
自律した「意識」らしきものを持ち、その活動の副産物―「夢」―として生命(奇形の生命体)を作り出す、「宝石」と、それを巡る少年の物語。1950年に書かれたとは思えないくらいテーマ的にも小説としても洗練されてて感動(久々に読み返したらちょっとこの小説に関してはアーヴィングっぽい文章)。「他者」の自律した(私たちとは違うルールの)生と、彼らの創造を巡っての物語、という形を通して多文化主義のはしりを描き出しているんだけれど、言うまでもなくSF作品っていうものは常にそうした「他者」との関係を描こうとしてきたものだし(例えばスタージョンの同時期の作品で、殆ど初めて同性愛を肯定的に描いたものがある)、ある意味で倫理の最先端に目をやっている―少なくとも、そうした「他者」への想像力の重要性を常に説き続けてきた―ジャンルなのは間違いない。というわけで個人的には最近の廃れっぷりは悲しい。いや、単にファンとして悲しいのもあるんだけど。
この作品について言うと、「宝石」との共生というよりも種としてのサバイバルという形で、競合しあうアイデンティティ・ポリティクスと言う形での多文化主義を幻視させるのが興味深い。いや、しみじみこれがもう60年前の小説だって言うのは凄い。