20060410

The Elephant Vanishes カンガルー日和 (講談社文庫)

プルリングというものがあった。
今の缶飲料は複雑なプルタブになっていて、引き起こしたあともう一度元に戻すことでゴミを出すことなく飲み口が作れるのだけれど、少し前まで缶飲料の飲み口はただ古墳みたいな形の切込みを入れられているだけで、リングを引っ張るとその古墳みたいな部分が取れて穴が開くようになっていた。今考えるとこれは危ない(飲み口や古墳みたいな部分でよく口を切ったりした)だけじゃなくやたらゴミがポイ捨てされることにも繋がって(飲み口をあける=飲み始める場所と缶を捨てる=飲み終わる場所は往々にして同じじゃないので、どんなにゴミ箱を作っても古墳みたいな部分だけひたすら路上に捨てられた)、何一ついいことはない。誰だか知らないけれどプルタブを考えた人はえらいと思う。
ともあれ、1990年代のいつごろだか分からないけれど、缶飲料の飲み口はある時点からいっせいにプルタブになった。田舎の自販機で売っているようなよくわからないつぶつぶオレンジジュースみたいなもの(果汁20%くらいのものだ)だけが最後の抵抗をしていたけれど、それも21世紀にはいる前にプルタブ軍の勢いの前に完全に沈静化した。プルリングは死んだのだ。
僕は1990年代に十代を過ごしたバブル後の世代(英語で言うとGeneration Y)だから、実質的にプルリングを目撃した最後の人間の一人ということになる。それでも僕がティーンエイジャーになる前にはプルリングは殆ど絶滅しかかっていたから、プルリングの缶ジュースは飲んだことがあっても缶ビールは一度も飲んだことが無かった。缶の上についたリングを引っ張り、無造作に投げ捨て、暑い日差しの下で思いっきりぐびりとやる。缶は汗をかいている。午後はまだまだ長いのだ。プルリングの缶ビール、というだけで、どこかシーナマコト調になってしまう。バブリーな感じがする。失われた十年、と意味もなく呟いてみたくなったりする。1990年代のあの頃僕は梅酒やワインの味を覚え、親の目を盗んで毎日毎日少しずつ家中の酒をあかしたりしていたが、ビールにだけは手を伸ばさなかった。プルリングの缶ビールは、いつかもう少し大人になってから飲むものだと考えていた。結局そのいつかは永遠に訪れなかった。あれから十年ちょっと、当時よりは年をとったけれど当時思い描いていたほど大人になりきれない、その曖昧な隙間のどこかに、古墳みたいな形をしたプルリングは滑り落ちてしまったのだろう。
 
何一つうまくいかない日曜の午後、ペリエを飲みながら村上春樹カンガルー日和』『パン屋再襲撃』、Haruki Murakami _The Elephant Vanishes_(タイのバックパッカー古書店で買ったもの)を読む。古くからの友人は知っていることだが、僕は高校の頃まで村上春樹を読まなかった。読まず嫌いの一点に尽きるが、なぜか意地でも読みたくないと思っていた。ある日本屋で立ち読みしてからはまり、それでもそれからも読んだとは決して認めたくなかった。だからかは知らないが、今でも村上の短編を読んでいると快楽よりも痛みよりも妙な居心地の悪さばかりを覚えた。だからプルリングを思い浮かべたのだ、といいたいところだけれど、単に『カンガルー日和』のなかでプルリングのビールを飲んでいるシーンが気になっただけだ。