James R.Kincaid, _Erotic Innocence: The Culture of Child Molesting_

Erotic Innocence: The Culture of Child Molesting
我々の身の回りには、小児性愛にまつわる言説が満ち溢れている。児童性虐待批判などに限らず、映画「ホーム・アローン」におけるカルキン少年の愛らしい姿でさえ、その例外ではない。だが、我々はそうした言説にあまりに浸っているがゆえにその物語が「正しい」のか「嘘」なのか知ることは出来ない。果たしてマスメディアが騒ぎ立てるほどに児童性虐待が行われているのかどうか、本当には誰も知ることが出来ないのだ。
 
本書においてキンケイドは、社会学的・文化研究的に、そうした物語のリアリティの内実を問うのではなく、そうした物語が語られ続けているとはどういうことなのか、我々の文化がそうした物語を必要としているのは何故なのか、という方向へ問いを向ける。それに対して彼が示す答えはこうだ:「我々」がそれを欲望しているから。「我々」の文化の深遠に小児性愛は確実に潜み、その原動力となっているから。19世紀イギリス文学を題材とした_Child-Loving_と同じこの主題は、本書においては20世紀の文学・映画・裁判報道など多様な文化表象を題材に繰り返される。
だが、小児性愛の言説に対し、それが「実際に起きたかどうかはとりあえず不問にして」、「神話」として取り扱う、というこうしたキンケイドの態度は、社会学・文化研究のアプローチとしては至極まっとうである反面、「我々」の目には時に極めて危ういものとして映る。一面ではキンケイドの主張するように、こうした言説は逃れられないものであり、それから距離を取ろうとすることは我々の文化においては小児性愛を肯定するものとして見えるからであるが、もう一面ではそのレベルを差し引いてなお、キンケイド自身がペドファイルであるように見えてしまうからである。本書は文化研究として極めてまっとうなものであるのだが、小児性愛という社会的にタブーとされるもの(それに対しては真っ向から批判するしか許されない)に対して「まっとうな」研究を行えてしまうこと自体、何かおかしいのではないか、というように。おそらく多くの(殆どの)読者にとって本書はおぞましいものとして映る。それは村山敏勝がその著書の中で指摘していたように「彼が(そして殆どの成人読者が)自身の記述する欲望に距離を取れないというメカニズムのため」であり、また本書が(キンケイド自身の意図に関わらず)非常に危険な言説に巻き込まれてしまう可能性をはらんだものであるから、なのだろう。