齋藤純一『自由』

自由 (思考のフロンティア)
一日一冊電車内で読破しようキャンペーン第二弾。年明け頃の朝日の書評に載ってて気になってたのだけどやっと読んだ。えー、率直な感想を二つ。①途中の小泉批判がすげー気持ちいい。②就職活動中に読むもんじゃない。

冒頭で自由概念の歴史的変遷をその仮想敵(国家、社会、市場etc...)を通じて概観、近代の「消極的自由」(一言で言うと外部から干渉を受けないということ)概念の問題点を指摘する、というのは書評で知ったけど、その後の近年の自由の「私化」についての手厳しい批判が小気味よい。特に「柔軟な自己開発・自己実現=企業家精神(アントレプレナーシップ)、自己評価、自己責任」を特徴とする現代の自己統治(自由の見せ掛けを取った不自由)についての批判を行う第二章は、何だかありがちなことを言っている気もするけれど読んでて楽しかった(酷い感想だ)。何人かこの章を読ませたい人が思い浮かんだのは秘密。
基本的にアーレントの議論によりそう齋藤は、自己を同一性と結びつける近代のリベラリズムを批判し、それをより「差異性・他者性・運動性・再定義可能性」を持ったものとして見直す、といういわゆるポ構の流れ。だから、「自分からの自由」の達成のために現在私的に閉じ込められている自由を公的なものとして捉えなおしましょう、という流れは非常に明確でわかりやすい。あまりにわかりやすいので、そして結局落としどころがスマップみたいな多文化主義的自由観になってしまうので、後半は正直さらっと読み流してしまった(小泉大好きな人や「自らの生を一つのプロジェクトとして扱う」良きアントレプレナー予備軍にはそうじゃないかも)。
結局書評でもあったように、この本の売りの一つは冒頭の思想史的パートの整理のエレガントさなのかなぁ。でも間違いなく色々考えるヒントにはなる本で、多分それが最大の魅力なのでしょう。僕はなんとなくフーコー、とりわけ晩年の「自己への配慮」とか言い出した頃のフーコーについて考えました*1フーコーの「自己への配慮」概念は、大雑把に言うと古典古代において市民が自己統御/規制によって「自身の快楽からの自由」を達成していた、というものらしいのですが、今までの僕の疑問は①それって権力の内面化とどう区別できるのか②それってそれ自体快楽なんじゃないかというものだったんだけれど、③それってここで齋藤が批判している近年の自己統治(という自由の幻想)とどう違うんだろう?

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『思想のフロンティア』シリーズは思想系入門書としては割合クオリティの高いほうじゃないかと思っているんですが(最近出てる『シリーズ現代思想ガイドブック』もなかなか評判よさそうなのですがなにぶん周りが専門家ばかりなのでみんな読んでなくって実際のところよくわかりません)、この「自由」ってテーマ(これが今まで出てなかったのも面白い)が出版されるのは、まさに今!って感じでいいと思います。以前先輩と『思想のフロンティア』シリーズで次に出すべきタイトルを考えるゲーム(院生ちっく)をやったときには「障害学」「親密圏」あたりは挙がったのですが。次、何が出るんでしょうか?(個人的には「脳」って出して欲しいな(人文学にどれだけ衝撃をあたえたのか考えるために))

*1:これはこの間読んだデイヴィッド・ハルプリン『聖フーコー』に詳しいです。聖フーコー―ゲイの聖人伝に向けて (批評空間叢書)