★Walter Benn Michaels, _The Shape of the Signifier_2

The Shape of the Signifier: 1967 to the End of History

フランスの暴動、あるいは9.11以降の一連のテロリズムを(もしこれらが平行して考えられると仮定して、だが)単にアイデンティティの承認をめぐる争いと見做すことは、現在の自由資本主義(「帝国」)のあり方そのものに対する彼らの疑い(というよりはもう少し強い)の声を中和し、一面ではリベラルな多文化主義の形をとることでそれを内包化すると同時に、一面ではそれに対するバックラッシュ的な言説を作り出すことで皮肉にも「帝国」の権力を強化する。
 
この視角を取るならば、マイクルズの議論の抱えるある種のパフォーマティヴな欠陥が明らかになるだろう。アイデンティティ・ポリティクスを批判し、イデオロギー闘争の有効性を訴えるマイクルズは、しかし、イスラム原理主義による一連のテロリズムを「彼らと我々が信じるものが違う」(すなわちイデオロギーによって)ためではなく「彼らと我々が違う」(すなわちアイデンティティによって)ために起こるものだとみなし、それを冷戦以降のアイデンティティ主義の一環に位置づけることで、逆説的に彼らの政治性を中和する。テロリズムや暴動は、(マイクルズの批判に反して)アイデンティティのみならずイデオロギーを巡る争いでもあるというまさにそのことにより*1、彼の議論はある種の破綻をきたしてしまう。テロリズムを単にアイデンティティをめぐる争いと見做すことで、マイクルズの議論は効果としては郊外の若者や移民を「社会のゴミ」と呼ぶフランスの内相やイスラム国家を「ならずもの」と呼ぶアメリカの大統領の発言と不幸な形で重なってしまうのだ。
 
無論ネグリ・ハートの議論にも問題がないわけではない(マルチチュードとか怪しすぎる)し、僕がテロリズムを支援しているわけでもない*2。けれど燃え上がる車の鮮烈さは、いずれにせよ対岸の火事となるべきではない。

*1:イスラム原理主義によるテロリズムアイデンティティを巡る争いでであるだけでなく、同時にイデオロギーを巡る争いでもあるということは、それが極めてポストモダンなものであることにかかっている。原理主義者が標榜するような「かつて、資本主義に汚染される前にあった理想的な戒律」は明らかにフレドリック・ジェイムソンの言う後期資本主義の中で生まれてきたバックラッシュ的な(起源の)幻想に過ぎない。そしてそうである以上、それは必然的に常に自由資本主義との関係の中で自己を定義することになる。

*2:とはいえこの問題についてはやや微妙なところがあるのでいずれ「ハッカビーズ」について書くときに書きます。この作品についてはすすめた友人が先に書いたんだけど、彼の解釈はあまりに哲学的に過ぎるとおもう(そしてその観点で見るとたしかにこの映画は大したことない)。むしろこれは9.11以降のマクロ政治の文脈で読まれるべき作品だというのが僕の解釈。