ウィリアム・サローヤン『パパ・ユーア・クレイジー』

パパ・ユーアクレイジー (新潮文庫)
昨日の日記を書いてから食べ物が美味しそうだった小説って何があるかな、とぼうっと考えていたのだけれど、最初に思いついたのは(このブログのコンセプトである)旅の小説ではなくてなぜかウィリアム・サローヤンの『パパ・ユーア・クレイジー*1だった。伊丹十三の直訳を通り越したような直訳*2が(それが明らかに意図的にある種の違和感を与えることを計算していることは認めたうえでなお)評価のわかれるこの作品は、しかし、原文自体英語としてはかなり不自然な文章となっている。
 
文体の不自然さは、小説の語り自体に起因している。『パパ』の語り手は十歳の誕生日を迎えたばかりの少年で、引退を宣言した父親(ほんとにこいつはクレイジーだ)に小説家という仕事を引き渡され、それ以来世界を自分自身の目でしっかりと見つめ、その意味を発見するという困難な仕事を押し付けられる。母と妹と三人で暮らしていた語り手は、その日から(妻の長電話がいやで家出した)父の家で暮らすことになり、彼と無数の質問を投げあい、ゲームをし、そして食事を食べるなかで、世界とは何か、小説を書くとは、そして生きるとはどういうことかを探し続けていく。その模索は、世界に対して常に開かれていて、しかもいつも驚きと共に世界を見るというジレンマを抱えることでもある。けれど、語り手に、そして小説家の先輩であるその父にとっては、世界は常に新しい。常に所有代名詞をつけられる名詞は、語り手にとってそれらが一般化できないこと、つねに自分と関わりを持ちうる固有性のあるものであることを意味しているのだ。
 
…という長い前置きはさておき、この小説もすごくご飯が美味しそう。アメリカの(おそらく西海岸の)郊外を舞台にしたこの小説は、語り手と父が数百キロ離れた「ハーフ・ムーン・ベイ」(半月湾)へドライブをする場面以外旅らしい旅をするわけではないのだけれど、すべてを新しく・異化されたものとして見る語りは、日常の名もない(手抜き)料理を、旅先で口にした名前もよくわからない食べ物に変えてしまう。
例えば父親がある日作る料理。

「私はお前に、われわれが何を食べようとしているのかをざっと説明しよう。メキシカン・ビーン・シチュー。これは九十九箇の小さな赤豆と、水一パイント、玉葱一箇、みじん切り、ピーマン一箇、パセリ四本、にんにく四かけ、オリーブ油大匙三杯、トマト三箇、地理パウダー少少、塩、そして胡椒だ」
「あなたはそれをどれくらい煮たの?」
「豆が柔らかくなって、全部の味が熱でうまい工合に混りあうまでさ。それが約二時間かかるが、でも、三時間煮たってかまわないんだ」

「ハーフ・ムーン・ベイ」ではこんなやりとりが見られる。

僕の父はいった。「ホット・ドッグはどうだい?」
「あなたはホット・ドッグを食べたいの?」
「もちろん私は食べたいさ。私が食べちゃいかん理由でもあるのかね?」
「僕たちあんまりお金がないんだよ。それに、うちへ帰れば僕たち食べたいだけ食べられるじゃないか」
「でもホット・ドッグは食べられない」
「ホット・ドッグだってあるかも知れないよ」
「だけど、それは海岸で食べるホット・ドッグじゃないだろう」
「ホット・ドッグは海岸では一個二十五セントなんだよ。一つずつ食べたら五十セントになってしまう。五十セントあれば、僕たちガソリンが二ガロン買えて、四十マイルも走れるんだ」
「確かにその通りだ」僕の父がいった。「しかし私にはホット・ドッグが匂うんだ。だから、お前さえかまわなけりゃ、私はホット・ドッグを一つ食べたいと思うんだがね」
「僕はかまわないよ、父さん」
僕たちは歩いて丘を降り、浜辺でめいめい一つずつホット・ドッグを買い、なにもかもつけてもらった。
なにもかもつけるというのは、玉葱のみじん切りやピクルスとピーマンのみじん切りやマスタードやチリ・ソースなんかをホット・ドッグ全体の上にかけて、パンの上から横へだらだら垂れるようにするのだ。僕の父は、彼のホット・ドッグを三口で食べた。

あるいは、レイモンド・カーバー「ささやかだけれど、役に立つこと」*3を思わせるようなこんなシーン。

「あんた中へ入るかね、それじゃ?」パン屋がいったので僕の父と僕は中へ入った。僕たちは男について、男と彼の妻がパンを焼いている場所へ行った。そこは清潔で温かだった。金属の棚の上には焼き立ての食パンとロールパンが並んでいた。
「あんたら、勝手に食べてくれ」パン屋はいった。
僕の父は、パン屋の妻がオヴンの中から出してくれた六個のフランスパンの中の一個をとった。それらのパンを彼女は先がスペード形になった長い木の板に乗せてさし出した。それからまた、彼女はスペードに乗せて、ロールを沢山出してくれた。僕の父は六個とった。彼は僕に一個くれて、もう一個をパクリと食いちぎった。大きいフランスパンはそのまま包まずにコートのポケットに入れた。
「おかけよ」パン屋がいいた。「あちらの小さなテーブルの上にチーズがあるからおあがり」
僕の父と僕は小さなテーブルのほうへ行った。そのテーブルはパン屋と彼の妻がパンとチーズを食べるテーブルだった。僕たちは腰かけた。
「父さん、あなたあのパン屋さん、知っているの?」
「私が彼に会うのは生まれて初めてさ」

朝、町が目覚める前に焼きたてのパンをほおばることは幸せだ。人の起きていない静かな町と、熱々のパンの鮮烈な強度に驚くことができるなら、旅はまたあらゆる日常から始まっていく。

*1:ウィリアム・サローヤン伊丹十三訳)『パパ・ユーア・クレイジー』(新潮社、1988)。今回は引用が多くて面倒なのでページ数は省略。

*2:たとえばこんな調子だ。「僕の父と僕は、僕の母と僕の妹にさよならをいった。…(略)…僕の父は、われわれを僕の母に車で送らせようとしなかった。彼は僕が辛い経験に馴れるのを望んでいるのだ。」(同、p.16)

*3:日本語(村上訳)を持ってないのでこちらは原書(というかベスト版)。Raymond Carver, _Where I'm calling from: New and Selected Stories_, Vintage, 1989。