あなたを囲むように地面に円を書いて、またがずに外に出られますか?


あなたを囲むように地面に円を書いて、それをまたがずに「外」に出られますか?
この有名な論理クイズの答えは、「外」の定義を変えればいい、というものだ。普通に考えたら、あなたは円の「中」にいる。でもその円をどんどんどんどん大きくして、これが地球の円周よりも大きくなったらどうなりますか?円は(あなたから見て地球の反対側に)、今度はどんどん小さくなって、しまいには対蹠点の周りの小さな円になる。だから、あなたの周りにあるその円の中心をあなたから見て地球の対蹠点と「定義」してしまえば、あなたはその円の「外側」にいるのです!
このほとんど詭弁のような議論が示すのは、
・「あなたは自分の周囲に書いた円をまたがずにその外側に出られない」
という命題について、
1)その各要素(「あなた」「円」…)の意味はわかりながらも真偽が「わからなく」なる状況があるということ
2)そしてその状況においては「わからない」ということが唯一の「正しい」答えだ、ということだ。

…以上の説明はぼくが理解する限りでの日常言語学派的テーゼだと思うのですが(間違っていたら訂正ください)、これを発展させると「ある発話の意味を問われたらそれをゆっくり繰り返すしかない」というウィトゲンシュタインにたどり着き、それは批評用語では形式と内容の不可分性という話になる。

The Senses of Walden: An Expanded Edition

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Walden: Lessons for the New Millennium

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Stanley Cavellの議論はその延長で、_Walden_におけるレトリック(形式)に着目した上で、ソローのプロジェクトを(1)メタ言語を拒否した、(2)肉体化された/日常の知の称揚としてとらえるものだ。「ソローがAといったとき、彼は(メタファではなく)A自体を意味している」というカヴェルのメイン・テーゼは、簡単に言えば「ソローのような偉大な文学作品はメタナラティヴによって言い換えができない」、翻って「言いかえができないものが偉大な作品だ」、というわけだ。いわばウィトゲンシュタインの倫理化(で、かつこれをエマソン個人主義と結びつけるという意味で、アメリカ化)。
問題はCavellの議論自体は日常言語学派というメタナラティヴとどういう関係にあるのか、つまり「メタ言語によって言い換えをすることができないものが偉大な文学だ」というCavell自身はソローに対するメタ言語ではないのか、というあたりで教授と議論。それはさながらJ.L.オースティンをいかに読むかをめぐるデリダウィトゲンシュタインの闘いであった・・・!