What's queer about Queer Studies Now?


What is queer about Queer Studies Now?というタイトルの誌上討論会がCritical Inquiryであったのは数年前。
それからアカデミックな、それからノン・アカデミックな議論の空気は多少変化したけれど、「クィア批評のなにがヘンなのか(でありえる)」という命題はまだ未解決だし、だからこそ重要だ。とくにネオリベラリズムアイデンティティ主義が手をとって機能しているような状況では。


一昨日指導教官と初の面談があり、こんな(だいたいは師匠から引き継いだ)話をしておおいに盛り上がる。
…その後なぜかガッツリ風邪を引き、木曜の授業は欠席。二日で30時間近く寝てようやくベッドから起き上がれる程度に回復。なによりもおなかがすきました。コンビニないとつらいなあ。

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The Body in Pain: The Making and Unmaking of the World

The Body in Pain: The Making and Unmaking of the World

で、休んだ授業で扱ったのがこれ。
予習とレスポンス・ペーパー(日本の大学で使われている語とは違い、授業の前に「本への」レスポンスとして書く、というのはカルチャー・ショックでした)提出を終えたうえでの欠席なのでかなしい。
前半の拷問と戦争の章、暴力の場において文化の解体(unmaking)と痛みが相互関係的に悪化させあうくだりは何度読んでもすごい。
スカリー自身の問題としては、彼女の言語観がreference model(言語は現実を映す/あるいはそれに失敗するものである)なので、彼女の論の中ではほぼ必然的に痛みのコミュニケーションが不可能になる、というところ。何とかしてそれをコミュニケーションに開くにはある種の公的空間の措定が必要だし、それには(これ自体痛みを伴うとしても)痛みを語るとはどういうことか、という言語観自体を変えなくてはいけないんじゃないか。

…こんなことを授業で読めなかったレスポンス・ペーパーに書いたのですが(ペーパー自体はメールで前日提出)、じつはこの本、M1のときに日本の大学院で某先生の授業で読んだのでした。
その当時はこんなこと考えなかった、というかunmakingとかmakingってなんだ、と混乱していたので多少も成長したのですが、それ以上に当時に比べて露骨に保守化したことを改めて実感してややショック。