海を見たことがないひとに

海を見たことがないひとに、どうやって海を説明しよう?

こちらでできた友達と研究(の方法論)話になるたびに、こんなポップ言語哲学的な寓話が顔をだす。
海を見たことがなければ海を説明できない(→文学は語りえない何かとの作者の葛藤である)、という友達に、
もっともロマンティックな答えは その人と一緒に電車にのって海を見に行くことだと思う、と答える。
優秀な友達がすぐ指摘してくれるように、それは−−説明する相手が海を見たいと思っていないときにはとくに−−暴力的でありうる。

だから、きっと大事なのは、海の経験をなるべく素敵な形で分かち合うために、海に行く前にもっとその相手と仲良くなることだと思う。
あるいは、旅程を楽しむために、どんなお菓子をもっていくか。いい時間をすごすために、ビーチボールや凧や釣竿やビーチフラッグや浮き輪や、なにを持っていこうか?ご飯はどうしよう?海の家の具のない焼きそばもいい、おにぎりを作って持っていくのもいい、マクドナルドでも海を見ながらなら美味しいし、ぜったいにビールは必要だ。
ああ、海に行きたいなあ。

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Hard Times (Penguin Classics)

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Mary Barton (Penguin Popular Classics)

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The Body Economic: Life, Death, and Sensation in Political Economy and the Victorian Novel

The Body Economic: Life, Death, and Sensation in Political Economy and the Victorian Novel

ビクトリア文学と情動(affect)の講義にて。
前週から、ポリティカル・エコノミーの言説(マルサス、ミル、ベンサムあたり)と、ビクトリア文学における 社会変革のための「感情教育」のテーマについて検討。
ディケンズで面白かったのは、物語終盤、功利主義者の銀行家が理想的な社会システムを「健全な、行為/支払いの流通システム」だ、と主張するくだり。この前後に「お前は心(heart)があるのか?」と聞かれた彼は、「もちろん心臓(heart)はあるよ。ハーヴェイ[血液循環を発見した解剖学者]がいうようにね」と答えるのですが、このとき彼のレトリックでは(1)人体の血液の循環と(2)貨幣の流通と(3)(慈善事業をふくむ)行為の交換システムが同心円状に重ね合わせられている。
人体/社会体(ソーシャル・ボディ)を重ね合わせる、あるいは社会を擬人化するレトリック自体は古典的なものだけど、ディケンズの場合には、価値の労働理論 VS 価値の交換理論論争、という明確な時代背景がある。前者、価値の労働理論(典型的には初期マルクス)において価値が身体化されるのは感覚的にも納得いくのだけど、後者、価値の交換理論も身体のレトリックに因っている、というのはすこし面白い発見でした。