逆立ちすれば世界は変わる

Commonwealth

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誤解を恐れずに書けば、本書は極めて優れた文学批評である。
『帝国』三部作を締めくくる本書では、前二作で論じられたマルチチュードのもつ転覆的可能性が「共なるもの(the common)」という観点から読み解かれる。
無論のこと、フーコーの生政治論と生の哲学スピノザドゥルーズガタリ)を接続させ、(ポスト)マルクス主義の立場から新自由主義批判を行う本書において、直接的に文学作品が取り扱われることはない。けれど本書を「文学的」にするのは、前二作(とりわけ『帝国』)においても散見された、彼らの論の持つ両義的な――いわば対位法的な性質である。近代の統治形態としてのgovernmentalityと私有財産パラダイムの共犯関係性をめぐる彼らの鋭い批評は、しかし同時にその統治形態が逆説的にも生み出す内的抵抗の契機=マルチチュードの可能性を常に読み込んでいく。
こうした批評意識をバトラー的と呼ぶのが恐らく言い過ぎではないのは、最終章において展開される彼らの革命論が、偏狭なアイデンティティ・ポリティクスに警鐘を鳴らし、理想的革命のモデルをアイデンティティの自己抹消のプロセス、あるいはある種のクィア・ポリティクスに置くためである。あるいはそれは、サイード的なナショナリズムの乗り越えと言ってもいいかもしれない(先に述べた本書の方法論と照らし合わせれば不可解といってもいいことに、サイードの名前は本書に一度も登場しないのだが)。しかしここにおいても著者らは極めて注意深く、諸々の革命運動における弊害・両義性を指摘しつつもそれらを止揚しようと試みる。アガンベンらの論を踏まえつつ、生政治的労働が逆説的に生み出す境界侵犯的な価値、あるいはスピノザ的愛の可能性に賭けようとする各章の補遺は感動的ですらある。
私にとって残念だったのは、本書のそうした注意深さが「表象/代表(representation)」をめぐる議論において(恐らくは半ば意図的に)欠落していたことである。五章終盤におけるラクラウ・ムフ批判に顕著なように、本書ではrepresentationはつねにマルチチュードのもつ多数性・単独性を抹消するものとしてのみ考えられており、ラクラウが指摘した政治的representationのもつ還元的であると同時に創出・構成的でもある両義性はここでは脇に追いやられている。無論マルチチュードの可能性を強調するうえでこれは著者らにとって戦略的に必須な振る舞いであった。しかしこれは同時に、彼らにおけるマルチチュードの「身体」の神秘化と、それにともなう彼ら自身が行うrepresentationへの無自覚さ――「彼ら(労働者、農民etc…)は知っているのだ」と無媒介に措定する、スピヴァクが批判したところの透明な知識人的無意識の徴候である、と述べるのは言いすぎだろうか。