20080119

教訓は、格好を付けすぎてはいけないということだろう。
14h、N氏およびT氏@恵比寿:ラパスホール。
ム・シャハダ「レインボー」上映会+岡真理氏講演会。
14hに到着すると会場は思いのほかの大盛況。映画はとうに始まっており、終わりの15分しかみられなかった。従って映画自体についての感想は控えるが、川岸に遺体を詰めた袋がベルトコンベアのように並べられているシーンが強烈に印象に残った。ただし同行の両氏によれば、そのシーンで遺体の傍らに並べられた赤い水は特にイスラームの一般的な風習というわけではなく、何かしらの新興宗教的なものに思える、とのこと。

岡氏の講演は、本作タイトル―2004年のガザ侵攻作戦名から取られた―の解説に始まり、あとは彼女の著書で拝読したとおりの岡節、というところ。一時間半あまりも殆ど原稿に目を落とすことなく、トーンダウンもせず、熱く語り続けたその真摯さは本当に素晴らしいと思う。
全くの門外漢である(そして論文執筆中情報面においても引きこもっていた)私にとって、情報面においてだけでも大変に勉強になるものであった。以下特に印象に残った点。
1)この三週間、判明しているだけで死者1203名(うち子供410名)、負傷者5000名、重傷者500名以上。特に重傷者の数がほぼ変動していないのは、誰も正確な数字を把握できていないということの証左である。
2)かつての分割案に先立つ、特別検討委員会における「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題をイスラエルという国家建設により『解決』しようと試みることは国際法違反であるはずだ」という結論。これは多少なりともパレスチナ問題に精通している方なら常識なのかもしれないが、恥ずかしながら全く知らなかった。
岡氏の講演自体で強く印象に残ったのは、彼女が述べた「想像力(imagination)の差異」というべき問題。端的に言えば、「ホロコースト」という語が(内容の差異はあれ)何らかのイメージを喚起するのに対し、「ガザ」という言葉は具体的な生のイメージを喚起しないのではないか、という実に目を啓かれる指摘であった。ただその一方で、彼女が想定している「イメージの不均衡」を差異化(とでも呼べばいいのだろうか)するにあたり、「ガザ」を圧倒的暴力を被り続けるだけの存在としてイメージするべきなのか―あるいは、オルタナティヴな、生き生きとした生や文化の可能性をそこに賭けるべきなのかは、今ひとつ判断がつかなかった。
若干気になったのは、彼女が「ガザは強制収容所ではない」と強調しつつも何度かレトリックレベルでそれを「ホロコースト」に喩えた点(そして一度、実に徴候的に「イスラエル」を「ナチス」と言い間違えた点)だろう。同行の両氏は実に正しく、政治の問題を正義の問題に還元すること自体の問題性を指摘していたが、これは同時に個別の暴力(violences)を大文字の暴力(Violence)の照射と読むことであり、いわゆる「応答可能性」と呼ぶべき倫理のアポリアでもあるだろう。