終わってさっぱり、読んでがっかり


教訓は身も蓋もない。誰かを通じて新しく別の誰かを知るのは、やっぱり楽しい(pleasure)。
理由は二つある。
(1)健全なほう:新しい考えかたや振る舞いかたに触れることそれ自体のよろこび
(2)クィアなほう:新しい誰かを知ることによる、そのノードであった古い知己への再―同一化と再―差異化の幻想。

そう思わせた出来事も二つ。
(1)id:boy-smithさんらに初めてお目にかかったこと。
同居人shokou5と彼のご友人であるboy-smithくん、僕の旧友P、そして彼女の知人のイケメンドラマーQとカラオケを一緒させていただいた。渋谷系世代であると同時にヴィジュアル―メタル世代でもある僕らのカラオケは、誰かがオザケンを歌えば誰かがNirvanaデスボイスに翻訳し、一言で言えばカオスの様相を呈した。もう少しゆっくりお話できる時間があればと強く思いましたが、それだけ強烈に楽しかったということです。この場を借りて心よりのお礼を。
(2)ゴンブローヴィチを読んだこと。

フェルディドゥルケ (平凡社ライブラリー)

フェルディドゥルケ (平凡社ライブラリー)

他者を「おちり」=幼児化するナショナルな権力装置批判である本書は、けれど左翼小説というよりは公的な言説空間自体に距離を置く実存主義小説として読まれるべきだろう。二項対立のイデオロギー闘争(「青春」と「成熟」)をその内外の境界に立つ傍観者/覗視症者の視点から繰り返し戯画化してみせる『フェルディドゥルケ』は、右左のイデオロギーの基盤にあるナショナリズムそれ自体の欲望性を、過剰な描写により徹底して黒い笑いの対象にする。「なにものでもない」主人公の実存的な苦悩は、それゆえに「つら」=アイデンティティを取り付けられることの回避と、「おしり」=幼児性を取り付けられることの回避不能性であるといえば、あまりに三浦雅志的だろうか。
無論のこと、イーグルトンの新作の暗黙の教訓がそうであるように、ゲイ作家のテキストが表象する二律背反性の背後に須らくセクシュアリティの秘密を読み込む悪しき還元/本質主義は批判されなければならない(イーグルトンの歴史主義はそれをアイルランド性に読み替える)。それでも20世紀初頭のゲイ作家による本書を、「クィア」に読みたくなる誘惑に抗いがたいのは、そのナショナルな規範への距離感の流動性ゆえだ。ゴンブローヴィチの小説において、主人公は「おしり」化する権力に対し耐えざる同一化と差異の踊りによってその猥褻性を描き出す。であるとすれば、そこに「呼びかけられる側にある、ある種の準備、あるいはそれを予期する欲望」(Butler, Psychic 111)を見出すことは不自然ではないだろう。その意味において、ゴンブローヴィチの振る舞いはたとえば彼と同郷のゲイ作家コンラッド植民地主義表象と比べることができるだろう。そしてもちろん僕としては、「他者の幼児化」をナショナリズムの比喩に転じる彼の実存性それ自体の欲望の審級を読んでみたくなる*1

ゴンブローヴィチを読んだのは、先輩であるXさんとその知人のYさんを通じてでした。彼の小説を読む経験は、Xさんを通じてYさんを知る経験であると同時に、Yさんへの幻想の同一化を通じてXさんを知る、これ以上なくクィアな経験でした。この場を借りて彼らにも感謝を。

反逆の群像―批評とは何か

反逆の群像―批評とは何か

*1:ちなみに。謎めいた本記事のタイトルは、同書の結部に由来します。決して下の記事の内容とは関係ありません。