20081121


たとえば、深夜、煙草を求めて机の上をまさぐる右手の薬指が卓上スタンドに触れて、予期せぬ硬質な感触に驚く。
普通なら気に留めないようなその感触が意識にのぼると、どうしても左手の中指も同じ固さのものに触れないと気が済まなくなる。そうなると今度は両方の人差し指の非対称的な無感覚さに何かが欠けている気がする。もちろん人差し指まで触ったら親指も、今度は小指もと触って、最後に中指の指先に硬質な感触を乗せて、ようやくそれで一息つける。
漫画を読んでいるときはもっと性質が悪い。何の気なしにあるコマに指先で触れてしまうと、それと同じ大きさのコマを探し出し、対称の位置にある指先に乗せるまでは、どうしても落ち着かない。ストーリーも美学もなく、ただコマ割の幾何学を手指の対称性に重ねるまで、無心でページをめくる。
軽度のチックなのだ、と自覚したのは比較的幼い頃だった。日常に支障をきたすことは全くないし、それでなくても挙動不審な言動で、おそらく誰にも気づかれていない。けれど、「身体」ということを考えると、どうしても僕にとってはそれは外界との境界における過剰な自意識を意味してしまっていた。

マザーレス・ブルックリン (ミステリアス・プレス文庫)

マザーレス・ブルックリン (ミステリアス・プレス文庫)

セムのハードボイルド・ミステリの若き探偵、「フリーク」と呼ばれるライオネル・エスログのトゥーレット症候群は、もちろん僕より遥かに重度だ。ひとたび症状が現れると、そばにいる人の服に肩に触れ、物の数に固執し、言葉はその響きだけで連想を重ね、フォークナーのベンジャミン・コンプソンばりに支離滅裂になる。
「探偵事務所のボスが殺される。街のチンピラあがりのけっしてほめられた男ではなかったが、配下の若い探偵は復讐を誓って犯人の追跡に乗り出す」というプロットは、佐々田雅子の訳者あとがきにあるようにハードボイルド小説の典型的なものだ。ボスが謎の死を遂げ、ライオネルはその仇の追跡に乗り出す。仲間の裏切りや黒幕の権力者を出し抜き、多国籍企業カウンターカルチャーに彩られた70年代NYを舞台にした彼の探求は、彼の知らなかったボスとその兄のギャッツビー的な「夢」(アメリカン・ドリーム)と失望の発見に行き着くことになる。
バラード『コカイン・ナイト』にも似て、フーダニットの問いを疑似餌にしつつ、物語は病理的に閉鎖された街それ自体の探求にいたる。バラードの書いたコスタ・デル・ソルは官僚化された犯罪を対象aとした閉鎖コミュニティだったが、レセムの書くニューヨークは閉所恐怖症、パニック障害、接続への欲求に満ちた、トゥーレット症候群それ自体にたとえられる。
けれど、レセムの書くニューヨークは、例えばオースターの書く亡霊の闊歩する街にはあまり似ていない。それは徹頭徹尾、現存するものたちだけが狂ったように接続しあう世界なのだ。レセムは書く。

では、それで誰が残ったのか? ウルマンだけだった。だが、ウルマンはこの話にたびたび出没はしても、けっして視界には入ってこなかったではないか? 世界(自分の脳)は死んだ輩、のろまの輩、ウルマンの輩であふれかえっている。幽霊の中には、窓に向かってしきりに吠えたてはしても家の中には入ってこないものがいる。そう、ミナがいっていたように、自分の闘いは自分で選ぶことだ。(506)

閉所恐怖症のニューヨークには、もう亡霊を住まわせて置くような土地など余っていない。だから、ライオネルの追跡は、ボスの亡霊に取り憑かれたところがほとんど感じられない。(上記のジェイムソン的意味でもそうだが)ポストモダン・ハードボイルドの慣わしとして、ライオネルは偉大な先輩フィリップ・マーロウらの探偵小説にたびたび言及するけれど、彼の追跡にはストイックなハードボイルドの裏側にある感傷が見られないのだ。そしてその意味で、彼と彼のニューヨークこそ、ハードボイルドの美学の正統な体現ではないだろうか。

「ローシが罪の意識についてこんなこといってたわ」しばらくしてからキメリーがいった。
「それは自分勝手だ。自分自身の始末をするのを避けているのに過ぎない。でなければ、自分自身について考えるのを」(420)
 
自分は死体の一つ一つにまで罪の意識を感じることはできない。ウルマン? そんな男には会ったことがない。ベイリーと同じことだ。二人とも一度も会ったことがない人間に過ぎない。その二人とみんなにいおう。靴の中に卵を入れて出て行け。それでおさらばしろ。話は歩きながらにしろ。(506)