読むこと/書くこと/生活することの中にあるリズムとその快楽

論文執筆の合間に、『数学ガール』続刊を読んでいる。
理系女子萌えならぬ整数問題萌えの僕だが、大学受験以来(そういえば僕の受験した大学は数学の大問の一つが必ず整数問題で、過去問を解くのは非常に楽しかった)塾講師の経験を除けばまともに数学に触れていないのですっかり頭が硬化していて、理系才女(ジェンダー・コンシャスじゃない表現だけど)の出す問題に頭の普段使っていない所を酷使したあとのラノベ的ストーリーに少し安堵の息をつく。今回は前著に比べてあまりに萌え要素が濃すぎて若干お腹一杯になりながら。
気分転換の割り当て時間を大幅に超過するまで読みふけった後にぼうっと思ったのは、この本を読む快楽はそのリズムにあるのだろうなあということ。それは、僕が週二回ほど行っているスポーツジムでの筋トレに似ている。普段使わない部位を酷使すること。その後で他の部位をゆっくりと動かしてストレッチすること。それは一定の時間の中で流れる断続的なリズムではなく、むしろ時間の流れ方自体―ベルグソン的な強度としての時間観といってもいいかもしれない―のリズムであり、連続性の中にある密度の違い、紅茶の中で溶けずに揺らめいている砂糖のようなものなのだろう。そのリズムの違いに身を任せるなかでどうしようもなく弄ばれる身体に、僕は言いようのない快楽を覚える。
それは例えば、リチャード・パワーズの小説についても言える。僕の仕事は彼を「小説家として」評価することではないけれど、「小説家として」見たときの彼はピンチョン・オースター・エリクソン等彼に比較される作家と比べたときに明らかにその文学性において劣っている。それは後者がそのテーマ(あるいはイデオロギー)を作品の構造自体に昇華し、作中においては歴史主義的な書き方をすることによって安定した「作品世界」を作っているのに対して、彼の小説、特に初期作品においてはその作品原理―ベンヤミン歴史観であれ、言語論的転回であれ、囚人のジレンマであれ―が小説内に(ネタバレのように)明示的に、かつ明らかに「物語」とは隔離された形で提示されるからだ。かくして(以前ミチコ・カクタニが『闇を掻き分けて/闇の中で性交して』について書いたように)物語は「お涙頂戴もののいい話」なのに「挿入される思弁的な章のおかげで興ざめ」といったものとなる。
パワーズを好意的に論じる人(多くは「ポスト・ヒューマン」論者だが)は、その二つが有機的に結合していることを主張し、彼の作品における「小さな話」と「大きな話」の相互作用(ポスト構造主義的観察者のジレンマを踏まえた)に目を向けるよう要請する。だが、と、これは研究者でなく彼の一ファンとして思う、彼の小説を読む快楽はその二つが、ミチコ・カクタニの言うように乖離していることにあるのではないか、と。「挿入される思弁的な章」において求められる知的論理的困窮と、「お涙頂戴もののいい話」において味わう同一化の快楽、この二つが非共約的であること―あるいは『数学ガール』風に言うなら「互いに素」であること、一言で言えば他者であること―が、彼の小説を読む快楽の根源にあるのではないだろうか?
「自明の性差」に基づいたとされるヘテロセクシズムが二項対立のジェンダー・システムの上に成り立っているように、あるいはそれに対するセクシュアル・マイノリティの批判がしばしば「(「同性」間セクシュアリティにおける、或いは二項対立の枠外におけるセックスを伴う)、よりラディカルな差異の推奨」という言説を伴うように、「質的な差」のふりをした「密度の差」は、その越境での快楽を抜け目なく約束する。だとすればこの「密度の差」(それは「読むときに疲れる」度合いでもあるし、「感情移入」の度合いでもあるだろう)のリズムに、彼の小説を読む快楽はあるのではないか。そしてそのReadabilityが、ポピュラー作家・パワーズを支えているのではないかと、僕はひそかに思う。それは、ピンチョンやデリーロ、あるいは中上健次のような厳密に構築された作品世界にも、例えば保坂和志金井美恵子のような「ゆるい」小説にも―それらが比較的均質な作品であるという点において―ないものだろう。パワーズの小説は、一方では明らかに古典的・情緒的な物語を提示する中で登場人物への「同一化」を求め、他方では突き放した知的思弁を求める。それは読者主体が潜ったり浮上したりできるものではなく、主体性を放棄してその連続的リズムに身を任せるよう求めてくるものだ。それゆえ他方では彼の作品はどうしようもなくイデオロジカルな問題性をはらむけれど、その快楽にどうしても僕は抗うことができない。

The Echo Maker

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数学ガール/フェルマーの最終定理 (数学ガールシリーズ 2)

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