Don DeLillo, _Falling Man_

 

Falling Man

Falling Man

ベンヤミンボードリヤールといった言葉を使わずにデリーロを語ることは難しいが、「出来事」を表象不可能にするシステムを批判的/パフォーマティヴに表象することは端的に不可能だ。シミュラークルについてのテキストはそれ自体シミュラークルの鎖となる。
デリーロのテキスト(とりわけ『アンダーワールド』とか『ホワイト・ノイズ』辺り)は、彼特有の眠くなるような(僕だけですか?)もったり感の中でいつしか、退屈なのはデリーロのテキストか、それとも彼のテキストが表象しているものか?という問いが意味をなさなくなる地点へと僕達を運んでいく。

物語は、911の生存者Keithが歩く、「その」の直後の街―「それはもはや通りではなく一つの世界、舞い落ちる灰と殆ど夜のような時空間」―から始まる。ポーカーのスリル、そして「その」ビルで拾った鞄の持ち主の女性とのアフェアに身を投じるKeith。ナラティヴ・セラピーを開き、やがて自分自身のセラピーへの依存に気づくその妻Lianne。そして、次の飛行機がやってくるのを待ち、双眼鏡で空を眺め続ける彼らの子Justin。
彼らを取り囲む誰もが「それ」について何かを語りたがる。単一の語彙、作中の言葉を借りるなら「単音節の」語りによって。その言説のシミュラークル(あ、使っちゃった)の中で、彼らが被る意味/アイデンティティの喪失は、だが、「それ」の持つ「出来事」性に起因するものではない(言うまでもなく、911は「今までに世界のどこでも起こらなかった」出来事ではない)。ひたすらに再生産される「それ」についての語りとは裏腹に、「それ」自体を意味づけることは徹底的なまでに無意味なのだ。
物語は、その無意味さを引き受ける鉤として、「落ちる男(Falling Man)」というパフォーマンス・アーティストを提示する。「その」日、ビルから身を投げ、落ちて行く最中の男を(再)演するパフォーマーは、落下する最中の(Falling)宙吊りにされた身体、文字通り生/死を宙吊りにされた、無意味で不気味な身体それ自体を提出する。
だが、無限に繰り延べられるシミュラークルとこの無意味な身体(それは当然今文学においてホットな「老い」の問題でもある)を対峙するとき、デリーロの巨視的物語は身体の崇高化(『ボディ・アーティスト』に顕著な)という点において、例えばカーヴァーの微視的物語と完全に軌を一にする。「911について語るとき我々が語るもの」がポーカーや老いや酒であると読むとき、そこに賭けられているものはメタとベタ(オブジェクト)、表象と現実、世界と自己、形式と内容…の瓦解した、もったりとした何者かだ。

それは言い換えれば、生きていくことそれ自体の死ぬほどの退屈さなのだ。