昨日の星屑

Lisbon222007-02-12

三連休、どこにも行かず引きこもり。タリーズで三日続けて六時間粘ったらとうとう追い出されたので帰宅。夕飯はアジア風スープご飯(付け合せはセロリ等の温野菜)。

<作り方>
玉葱はみじん切りにして炒める。色が変わってきたら人参のみじん切り、パプリカ、ビネガー漬けのケーパーの順に投入。軽く炒める。
平行して別鍋で昔(アメ横で)買って冷凍しておいた鮪の残りを茹でる。灰汁はこまめにとる。野菜がしんなりしてきたら鍋に投入。ローリエを入れ、茹でる(ある程度ゆだってきたらローリエは取り出す)。
ターメリックを中心に、ナツメグオールスパイス等各種スパイスを投入。くつくつ言っているあいだにココナッツミルクも。ほんの少量の粉末コンソメ、白ワインビネガー、それから塩、ブラックペッパーで味を調えたらできあがり。スープカレーのようにして、熱々のうちにお召し上がりください。
ターメリックを含めたスパイスのバランスがポイントなのですが、味見品がら適当に調整しつつ加えていったので何をいれたのかよく覚えてないのです。

夕飯後、まだ日が残っているのでふらふらと散歩。
友人に借りたClaude Williamson Trio, "South of the Border, West of the Sun"と歩き煙草で(ごめんなさい!)暮れかけた路地裏を歩く。足に任せているうち、いつの間にか新興住宅地のあいだを抜ける切り通しの坂道といういかにも多摩らしい風景を歩いている。新しい家の建築予定の空き地の上にはほとんど間の抜けた感じで空が開けている。無性に濃い酒が飲みたくなって、一年前だったら電話をかけて呼び出したのに、と、かつての恋人を思い出す。君のアパートは今はもうない(スピッツ「アパート」)。

デビューボことボーヴォワールによる(伝記的事実と社会史的評価を中心にした)サド論。サド及びそのテキストを、「自然の秩序という信仰で一致した十八世紀の啓蒙哲学」(訳者解説より)に対し「個」の実存の提唱を極限まで推し進めたものとして評価する、というのが実存主義ボーヴォワールの基本プロット。
「罪悪としての自然」という(ある種ホッブス的な)前提を認めたうえで、それに対して「善」としての社会システムあるいは神学システムを提唱するのではなく、「自然を憎みながらしかも自然を理解することなしに自然を写し取り」(100)、「悪としての「個」」を追求することによってサドは実存を取り戻そうと苦闘する(「罪悪の社会では、罪人でなければならぬ」)。ボーヴォワールはこうした彼の身振り及び「われわれを不安にさせる」そのテキストを、限りなくストイシズムに近づくものとして倫理的に再評価する*1
個人的には(社会的なそれでなくでなく個人的な)虐待が虐待者と被虐待者の間に、全くヘーゲル的でない、緊張に満ちた、しかしある種の倫理を伴った関係を作り上げてしまう、というくだりが興味深かった。それってどういうことなのか、は残念ながらこれからの課題です。

*1:ただしその際彼女はサドが「社会的には特権者の側にあったこと」と「社会の不正は個人の倫理的可能性までをも傷つけるものであったこと」、すなわち悪による反抗さえもある特定の特権者にのみ認められたものであることを抜け目無く指摘する