Escapism and Imagination

サボっていたつけが回って、いよいよ修論が修羅場ってしまいました。いやあ、はは、本当に我ながら情けないですがこれでもあと4日で24歳です。
気分転換に日本語を書こうと思ったものの、他に何とも触れ合っていないので例によって例の如くリチャード・パワーズについて書くしかないのですが、パワーズの小説には「(真の)孤独は想像力を養い、それによって他者との(不)可能な出会いを達成させる」(そして芸術はそれに貢献する)という繰り返し現れるテーマがあります。
ぼくの考えでは、そこで想定される「他者関係」としての「愛」はつねにある種のストックホルム・シンドロームであって、究極的にはあるヘゲモニーアガンベン的な生権力)の投影なんじゃないかという気がするんですが(それのおぞましいところはあらゆる「愛」と児童性虐待が見分けがつかなくなるところ)、ここしばらくこうも人に会っていないと、もう何だか素直にパワーズの言うことを信じて想像の世界でもいいから誰かに会いたいとすら思い始めました。妄想族(珍想団?)としての自分の全面肯定です。
というかこうやって書いていて思い出したのですが、昔「想像界」という言葉を知らなかったとき(確か学部の入門ゼミ時代)に「想像の世界」(妄想の中?)という意味でその言葉を使っていたことがあって、今思うと顔から火が出るほど恥ずかしい。けれど考えてみたら、パワーズの小説において「他者との出会い」を可能にする「想像imagination」は胎盤の中のような自他同一性、「自分」が「他者」に飲み込まれていることで、殆ど不可避的に─それゆえ権力の不均等を伴って─他者にattachする(いい訳語が見つからない)ことの謂いだとしたら、こと彼の小説だけを取ってみればぼくの恥ずかしい間違いも意味があるものなのかな、と思いました。これってメランコリー論以降のジュディス・バトラーの話として言ってもいいのだけど、今日はこのあたりでやめておきます。