フロイトと非ヨーロッパ人

フロイトと非‐ヨーロッパ人

フロイトと非‐ヨーロッパ人

フロイトのテクストを読み返すサイードを、我々はなぜ読み返すのだろうか?
それは─訳者あとがきで長原豊のいうように─「純粋なアイデンティティというフィクションへの批判を総括的に繰り返すという…おそらくはポストモダンであろうスノッブな聴衆に安堵を与え」るものとしてのみ(耳が痛い)、読まれるものなのだろうか。いや、もちろん違う。あとがきにおいて長原が、あるいは鵜飼が繰り返すように、サイードフロイト再読は、それをまさに政治的寓話として読み替えることであり、アイデンティティ一般についての心地よい解を導き出すことではない。

ユダヤ人にとって、パレスチナ人が(否認しようにも否認し得ない形で)「不気味にも」そこにいる、ということがいかなる政治の可能性を考慮する発端となりうるのか、イスラエルパレスチナにおいて我々はどうした政治を追求するべきなのか、サイードによるフロイトの対位法的読解は、それ自体(サイードに対し十分に敬意を払いながら、それでも緊張に満ちたresponseを返すジャクリーヌ・ローズのように)プロヴォカティヴなものであった。
いうならばこう言い替えてもいいだろう。サイードのいう「対位法的読解」とは、もしそれが歴史主義的脱構築の謂いであるならば、決して調和的なものではありえないし、あっていいはずはない。そう、僕にはそれが脱構築の問題に思えるのだ。ユダヤ教の祖・モーセエジプト人であったことから、ユダヤ教がその原初に於ける他者性(非ユダヤ性)を抑圧したものであり、パレスチナ人の存在がその「不気味なもの」の回帰(「自分たちの場所」がもともと他の人のものであったこと)を引き起こし、排他的ナショナリズムの解体の発端となる可能性を期待するサイードは、(『オリエンタリズム』において西洋キャノンに深くコミットしたというレベルを超えて)そのときあまりにもユダヤ的である。あるいは、ユダヤ性に対して愛に満ちている。なぜなら─いうまでもなく─脱構築とは、対象への愛なのだから。
ならばくりかえすと、サイードの「対位法的読解」という手法は─それが脱構築である限り─単に調和的なものであるはずはない。
隠されたメロディは、常に差延関係にある。だからこそそれは、ローズの、あるいは長原の反論に対して開かれており、コスモポリタンな政治(人間の真の解放)に向けて「相互排除的なアイデンティティの壁を、フロイト最後の著作を貫流するような力の作用で崩していく」可能性を秘めているのだろう。最近のN先生の言葉にはこうある。長いし、メモ書きなので細かい言い回しとかは違うかもしれないけれど、凄くいいことをいっているので勝手に紹介します。

「サイードにとって、対位法的読解が示すものとは固定的な、あるいはカメラのような一つの視点からのアイデンティティ(自己同一性)ではなかった。それは流れ、例えば河の流れのようなもので、さまざまな旋律との関係の中で、しかも決して完全には一致しない和音のようなものだったのだ。サイードは絶えず繭(アカデミックなタコツボ、排他的なナショナリズムetc...)の外にでよ、繭の外で起こっている出来事に目を向けよといってきたけれど、対位法的読解とはその外側で起こっている出来事との関係性の謂いだったんじゃないか。そして、彼の自伝「OUT OF PLACE」がそのようなものとして書かれているとき(言うなれば自分の人生を対位法的に読んでいるとするとき)、対位法とは彼にとって単なる批評のツールなどではなく、一種の人生哲学そのものだったんじゃないだろうか」