In The Course of Events

20h、研究に行き詰っているところでN氏にお呼ばれ。N氏の部屋は写真と布に溢れて、乱雑ながら(失礼!)落ち着く。フランスのキャバレーっぽい音楽もいい。キノコのソテーやケバップをいただきつつ、あっと言う間にスパークリングと、追加した赤とバカルディを空に。
遊びの話、研究の話、誰かの思い出話。我々を後に残していった他者は、それほど大事だと意識していた人でなくっても、我々の中に傷みたいに痕跡を残している。僕もN氏も学部時代社会学を学んでいたけれど、自他の淡いの何かもわもわしたところを研究するのに社会学はあまり向く学問ではないのかなと思う。

僕の人生全て売ります

僕の人生全て売ります

ちょっと前に下北に行ったときに水星さんがcity country cityで見つけたもの。一週間ほど食事の度にぼうっと眺めていた。
話は、ドットコム・ブームの中で「allmylifeforsale.com*1なるドメインを入手したことがきっかけの、自分の身の回りのもの全てをネットで売りつくしてしまうというプロジェクト。当初の目的は「人生をリセットすること」だったんだけど、売った相手とメールのやり取りをするうちに、自分のものだったものがそこでどんな第二の生を送っているのか、どんな風に相手の生活に結びついていくのかに興味がシフトしていくのがいい。プロジェクトが終わったあとにはアメリカ中を回って落札者の家を転々としたりして、いやほんとはた迷惑で楽しい。
売ってるものも灰皿に始まり、どこかの誰かの入れ歯、キリスト像のライト、タコスの皮…と本当にどうでもいいものばかり。「life」は「生活」くらいなのかな、と思っていると、「僕の誕生日の一日間、僕になって友人に誕生日を祝ってもらう権利」とか売り出したり、多分ものと記憶と自分ってそんなに簡単にわけられるものではないのだ。落札者の一人の送ったメールにはこうある。

でもそんなに単純明快じゃないか。タイプライターやブロックを売るとき、君は自分という人間の一部だと思ったいたものを手放すことになる。売ってしまったものの居場所は、もう君の人生ではなく誰か別人の人生だ。だから君のものは買った人の手の中で、その人の人生に溶け込んでいくかもしれない。でも何かを売るとき、人間という本来無秩序で予測不可能な要素が絡んできたら、君にはそれをものとして制御することなんて出来ない。

*1:このドメイン自体は最終的にアイオワ大学美術館が落札して、最低でも2012年までは現状のまま維持してくれるらしい。今でもここから飛んでいけば彼が売ったものやそれがその後どうなったかを見ることが出来る。