Innocent World

朝、宇宙人の血のように青い空(スピッツ「愛のことば」より)。どこにも行けないのでせめて愛車ヴェネツィア号(ミドリ02号、サラちゃんなど幾つかの異名を持つ)の空気チューブを取り替える。それだけでペダルが10%くらい軽くなった気がする。終わらない読書に飽きたら、午後はオレンジジュースとワインを持って河原まで走ろうと決めた。

・R.W.B.ルーイス(斉藤光訳)『アメリカのアダム―十九世紀における無垢と悲劇と伝統』
二十世紀初頭以降のモダニズム小説が描いてきた「アメリカ性」は、独立独歩の開拓者、無垢で純粋な「アメリカン・ヒーロー」にその形象を託してきた。本書でルーイスはその原型としての十九世紀の思想・小説・歴史学における新しい人間としての「アメリカン・アダム」の形象をたどり、それを通じて当時の思想界の希望派/郷愁派の弁証法エマソンの言うアイロニー派とかもあるけど)を描き出す。

新しいアメリカの舞台に生まれるべき新しい習慣は、根本的に新しい人間のイメージ、新しい冒険を演じるヒーローによって暗示された。つまり歴史から解放された個人であり、幸いにも祖先を失い、家柄や種族につきものの遺産には心を動かされず、またこれに汚されてもいない。そしてこの個人は、一人で立ち、自らに頼り、自らの力で前進し、彼独自の生得の力により、たとえ何が彼を待ち受けていようとも、これに立ち向かう用意があるのだ。
…(中略)…
彼は新しい人間であるために、徹底的に無垢であった。

個人的には第三部で論じられる当時の歴史学とこのアメリカン・アダム表象のかかわりが興味深かった。十九世紀の歴史家パークマンは、こうしたアダム表象にはむしろ対立的な郷愁派に属するのだが、結果として彼の議論の中で(A)野性的で荒々しい自然的なものと(B)進歩的で軟弱な文明的なものが対立させられる場合、前者に男のジェンダー、後者に女のジェンダーが付け加えられるのだ。明らかにモダニズム以降これは逆転するのだが、これはむしろ十九世紀当時のアメリカにおいて自然は「発見された」ものだ、ということなのだろう(当時の絵画とかが示すようにね)。