20060718

 
本を交換することで理解しあえると思っていた。
それは、お互いに共通の基盤を持つためというよりも、相手が愛し・所属するものを交換し合うことでお互いの根をなすものを見つめあう、そういった種類の仕草だったのだと思う。不勉強かつセンスレスなこともあって、高校大学と僕は(とりわけ親しい友達からは)借りる一方だったような気もするけれど、それで何かを共有できていたような気がしていた。
 
とは言え、もちろん借りるだけでなく気に入った本は貸しもした。したどころかどんどん貸した。別に何か見返りを得るためじゃなく、自分が面白いと思うものを相手に知ってもらいたいという純粋な自己愛と、それを相手がどう思うかそれ自体への興味に駆られて、友達や恋人になるべく興味を引きそうな本や音楽を貸し付けた。
「何も返さなくていい」と差し出されたものほど重いものはない。相互性(reciprocity)の亡霊はたとえ追い払ったところで背表紙の裏辺りにいつもひそやかに忍び込んで、僕の無意識の貸付の返済を迫った。まるで消費者金融の発想だ。何か貸し付ける度、それはしばしば誰かを生きにくくさせた。他者性とは関係の非対称性の謂いだったのだとは、本貸しのエコノミーを通じて学んだ。
 
そういいながら今でも僕は本を借りるし誰かに何か読ませたいと思ったらためらわず本を差し出す。けれどそれは同じものを読むことで同じ経験をするためなどではない。むしろそれが決定的に違うことを学んできたのだと思う。
 
同じ小説を読んでも読み方は違う。それは決して同一化できないような距離を持っているし、「わかった」なんて軽々しく言うことは出来ない。だからこそ楽しい。小説を読むことの快楽が自分と同一化しきれないような距離・差異に根ざしているのだとしたら、それは(クィアであれストレートであれ)セクシュアルな快楽―相手が自分と違う、という距離を前提とし、それを越えるような―と見分けがつかない、とクィアスタディーズは言う。だとしたら、同じ小説を読む人が自分と全く違う読みをすること、迂闊に批判も出来ないくらいに違う読みをすることのその発見―例えば同じ国に所属していながら、同じ「性」に所属していながらその人がどれだけ自分と違うかを見つけることのように―もまた、「理解」―それは「理解の不可能性」の体験と同じことだ―の一つの形なんじゃないだろうか。僕と同じ小説を読んだ人が全く違うことを思い違うことを語り違うことを論じる。その距離の体験が、僕とその人の殆ど不可能な出会いなんじゃないだろうか。
 
本を読むことは孤独な作業だと誰もが言う。孤独の中で人は自らに出会わざるをえないのだと。確かに本を読んだところで、誰かの読みと私の読みは(殆ど相容れないくらいに)違う。その距離は時に国境よりもジェンダー・ラインよりも遠いかもしれない。でも、だからこそ、国を越えて会いに行くみたいに、身体の境界を越えたintercourseみたいに、それは遠い誰かとの殆どロマンティックなまでの出会いを常に既に潜在的にはらんでいる。
 
私とあなたは多くを語り合わなかったかもしれないけれど、小説を通じてたくさんの話をしたような気がします。また小説の中で会いましょう。さようなら。