20060528

こんにちわ。しばらく日記を書いていなかったけれど、僕は元気です。
色々あって来年からフリーの編集者(いかにもダメ人間っぽい響き)やることになりました。こう書くとかっこいい感じがしますが、どう考えても明日なきフリーターです。実は来月から早くもお仕事で、これからしばらく(三年くらい)働きつつ研究を続けることになると思います。
というわけで読んだものの紹介等は今まで以上に大雑把になると思いますが、これからもよろしくお願いします。
 

The Case of Peter Pan: Or the Impossibility of Children's Fiction (New Cultural Studies Series)

The Case of Peter Pan: Or the Impossibility of Children's Fiction (New Cultural Studies Series)

ピーターパンにこれという「定本」がない(と言っていいと思う)ことはこの業界ではわりと有名なことらしい。本書はしたがって、伝統的なテキスト分析でなく「現象」としての「ピーターパン」(所謂ピーターパン・シンドロームのことではなく、演劇の題目として、あるいは学校での教材として、など)に対する文化研究というアプローチを取りつつ、言語と幼児性愛の問題を考えていくことになる。
基本的に以前紹介したJames Kincaidのように「児童文学」がいかに「大人」による「子供」の構築のための媒体だったかを暴きだすというのが本書のプロットだが、むしろ個人的にはマシュー・アーノルド等を引きつつ「ピーター・パン」が19世紀イギリスという「格差社会」において上流/下流の文化・言語の双方の子供に話しかけていたとする五章が興味深かった。
 
<女>なんていないと想像してごらん

<女>なんていないと想像してごらん

「カントの倫理学の〈精神分析化〉」(訳者あとがきより)とされる本書は、基本的にラカンの「女は〈すべてではない〉」というテーゼを巡り、母親という超越的な〈モノ〉の到達(それは原理的に不可能なのだから)の代わりに、欲動は常に既に断片化された部分対象で満足する「小文字の享楽」であり、そこに(カント的な超越的な彼方を否定する)内在的な倫理を見出す、というプロットである。
とは言いつつも、最終的に「対象は存在する」とし、(ポストモダンにおける)倫理の主体を求め続けるコプチェクの立場は、ベルサーニ的なナルシシズムの議論の出口のなさに対する一つの解答になりえると思う。
 
我らが共通の友〈上〉 (ちくま文庫)

我らが共通の友〈上〉 (ちくま文庫)

三年ぶりくらいにディケンズ読んだが、改めてプチブルい。