Sylvia Plath, _The Bell Jar_

The Bell Jar
拙論「『ベル・ジャー』についてもう何も言いたくない」(嘘)ようやく完成。ほんともういいよこの本。ドメスティック・イデオロギーナショナリズムヘテロセクシズム→フーコーの「古代の美学」→自律と進み、最近の問題関心にしたがってポストモダンな権力の話へ、というのが大まかな流れ。綺麗にまとまらなかったので落としどころを「青春小説」にしてしまったのが最大の後悔。話が逆行している…終章だけあとで書き直すかも。
で、書きおわってから気になったこと。近代文学とは「青春」の発見/創出であった、とする三浦雅士『青春の終焉』には非常に賛同するところです。ところが「青春小説」とは(こないだ書いた『小さな恋のメロディ』みたいに)基本的には学校・社会などの権力に対する抵抗の物語なので、フーコーナショナリズムの生=権力に対しては対立的な立場にあります。でも、よく覚えてないんだけれど三浦の議論は近代(国家)は自らの創出のために国民文学を必要として、その過程で「青春」というフィクションが作り出された、という話だったように記憶しています(違ったかな)。とすると「青春小説」が示す権力への抵抗とは、あらかじめ権力の側に用意された安全弁だった、ということになるのでしょうか。60年代に生きられなかった僕にはひょっとしたら一生分からないのかもしれないけれど、「権力への抵抗」という「青春」は(インターナショナルなどの形で)ナショナルな権力に抵抗するグローバルな動きに見えるとしても、グローバリゼーションそれ自体ナショナリズムと両輪で動いている以上、こうした「抵抗」もあらかじめナショナルな権力によって用意されたものだった、っということなのかな。