慰めの意味


Jan 5-11, @Toronto。
誕生日は郊外のGreektownとBrickworks Parkという古いレンガ工場跡ですごしました。Greektownは谷あいの街道を中心にした小さな町で、ギリシア人だけでなくメキシコ人、アジア系等多様な人種が集まったところなのですが、市の中心にあるLittle ItalyやPortugal Villege、あるいは中華街と違って、部外者な空気を味わわず(エスニック・コミュニティとしての要素がひくいためだと思います)、観光地として洗練されていて、のんびりとできました。二日強滞在して、ナスのパイとギリシア・コーヒー(ギリシア)、ケバブ(トルコ)、シェラスコ(ブラジル)、とんかつとうどん(日本)、バイン・セオとフォー・ガーとベトナム・コーヒー(ベトナム)、タイスキうどん(タイ)と食べ歩きました。
谷底にあるBrickworks Parkは19世紀頭から1980年代まで稼動していたというのがすごい。さびた溶鉱炉は工場萌えのきわみで、デジカメの電池が尽きたのが心から惜しかったです。

以下、旅行中に読んだ小説。(理論は明日)

The Assault: A Novel (Pentagonia)

The Assault: A Novel (Pentagonia)

カフカオーウェル的な全体主義(管理)社会批判小説。
政府高官の語り手は、「母を殺さなければ母のようになってしまう」という強迫観念と彼女への強い殺意を抱きつつ、国中を視察する(その過程で人々の身体/言語を抑圧する権力装置が描かれる)。物語終盤、政府から恩賞を授かることになった彼は、母が国家最高権力者である「代表−統領(Represident)」その人であることを知り、彼女に襲い掛かりpenetrateする−−。

言語と性を管理社会のメタファと同時に字義的な抑圧対象として描く手法、アンビバレントな母息子関係と他方での父の不在といったモチーフ、虫や小動物の比喩の多用といった美学はオーソドックスで、極めて「カフカ的」。こうした美学の結び目であるクライマックスの母の襲撃は、けれど、ひどくあっさりとしていて、彼と彼の性器は明らかに自己の外部の何者か(あるいは端的に、内的な他者)に突き動かされている。

The Meaning of Consuelo: A Novel (Bluestreak)

The Meaning of Consuelo: A Novel (Bluestreak)

西洋化された父と環境ナショナリズムの母のあいだに生まれたConsueloの視点から、妹のスキゾと父の浮気に端を発した家族の崩壊と、それに重ねあわされるプエルトリコジェンダー政治を描く。MTFの隣人やゲイらしき初恋の従兄との関係を通じ性的自律に目覚めていく彼女が、やがて国家・家族・植民地主義イデオロギーから身を離し、個人として自律していく…という基本プロットは、とてもアメリカ人好みなものに思う(ちょっとJamaica Kincaidっぽい)。
物語の底潮には、植民地主義とそれに対するナショナリズムの構造的セクシズムを個人の精神病理に重ね合わせる身体的アレゴリーがあるのだけど、そこで重要なモチーフになるのがConsuelo自身のrescue fantasy=逆転移であることは興味深い。

(余談だけど、ユースホステルのロビーに放置していたら表紙の女の子にメガネが落書きされていて、アンジェラ・アキみたいな顔になっていた。悪くなかった)