Narcissism and Ethics

anodeさんの日記にコメントしようと思ったのだけど、長くなったのでこちらで(勝手に引用してごめんなさい。もし気に障ったら言って下さい、すぐ消します!)。
※2006/01/07追記
以下のanodeさんのエクリチュールの誤配性についてのくだりと、その下の小説の話は、少なくとも直接的には関係ありません。わかりにくくてすみません。
僕の主張は、一つには別のところ(id:kebabtaroさんのところ)でも書いたようにエクリチュールの誤配性に(それを出来る限り最小化して、それでも最終的には)身をゆだねることっていうのは、殆どラブ・レターみたいなものなんじゃないかな、ということです。その意味で、その「祈り」は、ストレートの男性に告白する(判りにくいけれど下に挙げるのは主人公の男性に間接的に告白しているシーンです)祈くんの姿を思わせる、ということです。
それとは別のレベルで、自己の現前性という認識論的なレベルだけでなくって、もっと直接的に「生きる」ということそれ自体がもうどうしようもないくらい常に被制限的なものであることを受け入れることがある種の倫理の可能性を開くとしたら、そこにナルシシズムが(ゆがんだ形であるにせよ)寄与するんじゃないかな、と思って書いたのが下の記事です。

>確かに諦めるというのが最も賢い選択だと思います。非モテ問題を考えれば明らかなように。
>諦めることを選ぶ余地があるのなら、とっくの昔にはてなダイアリーを全部削除して、ネット活動やめてます。
>(友情を含む)恋愛以外の場面におけるロマンティシズムには一切興味がありません。
>もっとシンプルにいうなら諦念と絶望の先に祈りがあるということです。

エクリチュールの誤配性は、潔く(そしてロマンティックに)諦めるしかないんじゃないか」と(半ば茶化して)書いておいてあれですが、言葉と、そして友情のあり方として、倫理的にも感情的にも、非常に賛同します。いい言葉をありがとうございます。

ところで、ぼくの好きな小説家の作品に、「本当に好きなら、その人を諦めないといけません。みんなは幸せになればいいんです。僕の不幸は僕だけのものですから。でもそれって不幸なんでしょうか?」というくだりがあります。いやもうどうしようもないくらいナルシスティックな言い回しで、実際本人そうなのでしょうけれど、彼の小説をよく読むとどうも彼は実はペドフィリアなんじゃないか、という感じ(あくまで「感じ」ですが)を受けるのです。もし実際にそうだったと考えると、あるいは彼でなくてもペドフィリア的な欲望を持っている人のことを考えると、自分が愛する対象を傷つけないために、そして何より自分自身がなんとか(自分を否定しないまま)サバイブしていくためには、「諦めること」は、ロマンティシズム(ナルシシズム)に訴えてでも、なんとかして正当化されていかなければいけない、という構図があるように思えるのです。
これは別にペドに限った話ではなくって、最近思うのですが、ナルシシズムが倫理の可能性になるとしたら、それが我々は決して自由な存在なんかではなくって常に制限されているということ、「主体性」とは限りなく無限に近いくらいの欲望や可能性を繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し諦め続けることによってのみ成立していることを受け入れさせるかもしれない、ということなんじゃないでしょうか。
「僕の不幸は僕だけのもの」ということ自体は美しくもなんともないけれど、それによって自己の被制限性を受け入れることができるのなら、それは何らかの倫理の可能性にはならないでしょうか?