Always Already

「論争の決着は、自然の表象の原因であり、その結果ではないのだから、この自然という結果を、なぜどのようにして論争が決着したのかを説明するために用いることは決して出来ない」
…(中略)…
後半の「自然」を文字どおりに取り、かつそのすぐ後ろにある「結果」を綺麗に忘れると、(a)科学的な論争の推移や結果は外の世界の性質だけでは説明しきれない(ほかのより微妙な社会的影響に触れないにしろ、少なくともその時点でどのような実験が技術的に可能か決めるというだけでも、何らかの社会的要因が介入するのは当然である)という弱い、そして当たり前の主張か、(b)外的な世界の性質は、科学的な論争の推移や結果を左右するような役割を果さないという強いが明らかに誤った主張が読み取れる。

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

再読。というか、付録の、いわゆる「ソーカル事件」の元となった論文(「境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて」)だけ読んで積ん読状態でした。
この本でソーカルらは基本的には、「ポストモダン思想(と彼が呼ぶもの)がいかに(犯罪的にも)自然科学の概念・定理等を誤って使っているか」を示し、その観点からラカンクリステヴァらへの批判を行っている。けどまあラカンとかドゥルーズとかがどんだけ適当に自然科学の語彙を濫用しているかなんて今更言うまでもないことで、その意味でこれ自体は極めてまっとうなんだけれどあまり意味のない、ソーカルの言葉を借りれば「弱い主張」だ。けれど、いみじくも彼が取り上げるポストモダン思想のように、彼の議論はその裏側で「(こうしたことが示すように)ポストモダン思想は無責任でいい加減な相対主義そのもので、それは全然矛盾してる」という主張(彼の言葉を借りてこれを「強い主張」と呼ぼう)を行っている。
で、この本全体を通して、こうした彼の「弱い主張」は真だが少なくとも彼が序論とかで主張するほどの衝撃はない(つまり、ある種のポストモダニズムのテクストが濫喩で成り立っているということそれ自体は、それに対する十分な批判にはおそらくなりえない)。けれどこの「強い主張」はスキャンダラスであるものの、わりと疑わしい(まるで彼のポストモダン思想批判は自分に跳ね返ってきてしまっている気がする…とまでは言わないけれど)。
それが顕著に現れるのがこの「強い思想」が見え隠れする第四章「第一の間奏―科学哲学における認識的相対主義」(冒頭の引用)だ。ここでソーカルはバトラーがconstructionismと呼ぶものとconstructivismと呼ぶもの(一言で言えば、言語本質主義構築主義と歴史主義的構築主義どっちがどっちだか忘れた)の差異を無視し、かつそうした構築主義相対主義を更に(多分こちらは意図的に)混同しているようだけれども、ここでの彼の指摘はわりと面白い。せっかくなので、文中の例でなくこちらで紹介されている彼のバトラー批判から話を始めよう。
 
バトラーが「セックスは常に既にジェンダーだ(ジェンダー化されている)」と言うとき、それはセックス/生物学/存在論的説明をA、ジェンダー構築主義/認識論的説明をBとする(このまとめ方乱暴で好きじゃないんだけど、ソーカル君がこういっているのです)と、「AはBだ」といっている。これはそのまま文字通り読めば、「AではなくBだ」という「強い主張」だけれど、これはスキャンダラスな反面近年の生物学の示すように明らかに間違っている、とソーカルは主張する。しかもそうした点を問い詰められた最近のバトラーは、いや、それは「AもあるけどBもあるんだよ」という穏健な説明(上で言う「弱い主張」)に「日和り」、それは真だけれどおそらく(少なくとも当初見込まれたほどの)スキャンダラスさはない。

(因みに簡単にバトラーの言っていることを少なくとも文字通りのレベルで読めば、「あなたが生物学的差異だと思っているところには既に社会的な解釈(これが権力であるところがポイント)が入っていますよ」というもの)

ギョーカイではそれは近年の政治化傾向にあるバトラーの理論的後退(あるいは保守化)と見られるのが一般的だけれど、"Gender Trouble"に引き続き"Bodies That Matter"(とりあえずこれはタイトルばかりが一人歩きして)への誤解もあって、ソーカルとかから見てバトラーは「最初は『AではなくてB』って言ったけど、それは『AもあるけどBも』って言うための戦略(あるいはそういわざるを得ない状況)だったんですよ」と読めるのは判る。
僕個人からここでのソーカルらへの批判としては、だいたい上に書いたように
①彼は相対主義構築主義を混同している。すなわち、あるものが社会的に構築されていると主張することはそれが恣意的なものであるとか可変的なものであるとか人によって異なるとか言ったことを意味するのではない(ただしこれはソーカルが悪いんじゃなくてその辺をなし崩し的に書いた凡百の「ポストモダン思想家」が悪い、と言われればそのとおり)。
②上と重なるけれど、彼はconstructivismとconstructionismなるものを混同している。すなわち、構築主義的な立場とは、あるものが言語/文化/文脈によって決められていることを指摘する「だけ」(=ある種の言語本質主義)ではない。むしろそれが「いかに」構築されたか、そこにどのような歴史的・政治的権力が関わっているかを指摘する(すなわち構築主義とは、「科学」がレンズ越しのものであることを指摘するだけでなくそのレンズが歪んでいることを指摘する)。
③少なくともバトラーに関して言えば、「ジェンダー・トラブル」から「問題になる/物質化する身体」への移行は「強い主張」から「弱い主張」へのシフトではない。
で、ここでさっきからリンク先で言及しているサイトのまちかさんを含め、自然科学寄り・あるいは社会科学寄りの多くの論者は、バトラーが「ジェンダー・トラブル」で「強い主張」を行ったのは、あまりに「BではなくA」という考え方が受け入れられていたから逆に「AではなくB」と強調する必要があったから(だから彼女の真意は「弱い主張」)、とする見方が一般的で、これについては僕は留保。「ジェンダー・トラブル」においてアイデンティティ概念そのものを批判(少なくとも脱構築)するとき、彼女の真意は「強い主張」だった、と言い切る勇気は(少なくとも今は)ないけど、彼女がイワンとしていたことは「弱い主張」だとするのは、たぶん違う気がするのです。うぅむ。