If Only I Can

台風の影響で横浜も雨。友人(以下便宜上シメサバさんと呼ぶ)と滑り込みで「日本×画展!―しょく発する六人」に行く。
目当ての中村ケンゴがよかった。ワンルームの間取り図を素材にモンゴリアン(この名前がいつも出てこない)のコンポジションをパロった「COMPOSITION TOKYO」とか、手塚治虫藤子不二雄のキャラクタの影を繋げた「自分以外」だとか、携帯メールのタイトルのようにひたすら「Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:Re:」って続いた「Re:」だとか、漫画のふきだしを組み合わせた形の「スピーチバルーンマン」だとか。発想がいちいちオタクくさくてたまらない。ポップだし、優しい。シメサバさんは一つの部屋丸ごとに半紙を張り巡らせてひたすら絵を描きまくった、しりあがり寿の「俺の王国、こんなにでかいよ」がお気に召したようです。

21h0@Cafe Madu。僕、カプチーノアマレット。シメサバさん、ベイリーズカプチーノ。海月を見ながら昔話。

身体の零度 (講談社選書メチエ)

身体の零度 (講談社選書メチエ)

行き帰りの電車で読む。タイトルで判るように、近代国家の成立過程においていかにしてフーコー的な生権力の中でタブラ=ラサな「身体そのもの」というイデオロギ(身体観)が構築されてきたか(Butler的に言うとBodyがMatterしてきたか)、を、三浦らしく豊富な事例と平易な言葉で追う。舞踊について論じた七章(東洋的な舞踊と西洋的なダンスの違いは農耕民族と狩猟民族としての起源に基づくが、前者から後者への移行がUprightな身体のあり方を求める近代軍隊と密接なかかわりを持っていたこと)とか、ややオリエンタリストな気もしなくないけれど、面白い。個人的には日本古来の身体の動かし方「ナンバ」(三浦に拠れば厳密には違うんだけどここでは簡単に、右手と右足を同時に出すような歩き方、と定義。相撲の四股とか、空手の突きとか)がいかに農耕民族固有の単え身から起因するか、との件が興味深かった。