20060621

参ってばかりいるわけにも行かないので(じっさいへらへら暮らしているのですが、何だか見返してみたら二日続けて「参った」で終わっていてびっくりしたのです)、書評。
 

南回帰線 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

南回帰線 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

第一次大戦後のアメリカを舞台に、電信会社雇用主任ヘンリー・ミラーが猥雑な都市生活に苦言を呈したり白昼夢に浸ったり女と寝たりユダヤ人を差別したり女と寝たり中国人を差別したり哲学的なことを考えたり女と寝たりする(要約)。
学部時代に読んだときはキモくって最後まで読めなかったが、意外と楽しく(?)読めた。女や「外人」という他者がうじゃうじゃした街を腐敗とみなし、ミソジニスト・レイシストな言動を繰り返しつつも、無条件の許しや純粋なものへノスタルジックな欲望を向ける。要するにナルシシズムでありナショナリズムの問題なのだが、この二つのどちらがより本質的な問題なのかはやや疑問(それこそ解釈によって異なるのだが、僕自身がどちらにも決めあぐねているということです)。それは作中の「他者」である「女」と「外人」が果たしてどちらがどちらの比喩なのか、という問題でもあるのだけれど。30年代っていう状況を考えるとやっぱりナショナリズムでありアメリカの問題なのかなぁ。
 
ともあれ、一言で言うならばありえないくらい(記憶にあったのの数倍)エロいです。皆さんは電車の中で読んだりしないようにしましょう。
 

何も共有していない者たちの共同体

何も共有していない者たちの共同体

しばらく(「こんなの今更読んでるの!」というような)古典ばかり続いたので、久しぶりの初めて読む人。「すべての「クズ共」のために」という帯に引かれて即購入。著者はメルロ=ポンティレヴィナスクロソフスキーらの英訳者でもあるアメリカの哲学教授。
タイトルからも分かるように、西洋哲学の合理性、あるいは近代西洋的な「情報交換」としてのコミュニケーションに基づく共同体のオルタナティヴ―レヴィナス的な「他者」と出会う空間―を模索する営み、というのが基本線。よくも悪くも凄くアメリカ的な思想、というのが第一印象。
 
通常のコミュニケーション理解において「ノイズ」とされるような言語のsingularity、materiality(デリダ的performative)にコミットすることで、リンギスは情報交換の次元に回収されない(が、その前提となるような)生の「無条件の贈与」を見出す。そしてこうした語り手の単独性が端的に現れる状況として、著者は死に行く人に付き添う際のコミュニケーションを設定する。そこにおいては語られる内容ではなく、「この私が語ること」それ自体が要請されるのだから。こうしたモデルからリンギスは、生―それ自体リンギスは極めてvulnerableなものと見るが―の圧倒的な肯定、無条件の贈与を見出す。そしてこうした他者の単独性を見出すような対話の中にこそ、情報交換あるいはコードの同質性を前提としない、遠く離れたもの同士の「何も共有していない者たちの共同体」の可能性が現れるのである。
 
上の説明はやや分かりにくいが(あまり練ってないので)、基本的にリンギスの言っていることはすさまじく明確(訳者解説も、特に堀田さんの方は、分かりやすいしね)。理論的には一貫しているし、テキスト自体も読みやすい。ただリンギスはスタイルが非常に独特で、こうした哲学的思索と具体的な「他者」(あるいは、との出会い)の鮮烈な情景描写が入り混じったものになっている。で、これが凄くいい。僕の最も尊敬する研究者の一人である岡真理の『彼女の「正しい」名前とは何か』のタイトル論文にもちょっと雰囲気似ているけれど、リンギスの場合には岡さん以上に「旅」という感じがする(各章ごとに色んな民族の人の写真がクローズアップされていて、リンギス自身も学会では不思議な民族衣装で現れてダンスやパフォーマンスをしたりするらしいです)。
 
で、やっぱりこれって文学っぽいし、誰かに似ていると思ってずっと考えていたんだけれど、半分くらい読んだところで気がついた。この世界観って谷川俊太郎だ!!(「朝のリレー」とかね)