2006061403

三記。
とは言え今日は締め切り直後で仕事がないので再度更新します。いいのかこんなに職場でブログ書いてて俺。

狂人日記 (講談社文芸文庫)

狂人日記 (講談社文芸文庫)

色川武大を読むのは実は初めてで、『麻雀放浪記』の作者だということしか知らなかった。モダニストではないこともあって賭け事の文学性にそれほど入れ込んでいなかった(それは今でもそうだ)のであまり読む気がしてこなかった。
だがすごい。とある「精神異常者」(原文ママ)の生をつづった一人称小説だが、文章の強度が尋常ではない。一人の男が陥る狂気が、「ぐにゃっと柔らかい、しかしごりごりした存在感の塊」としての幻覚と共に、ひたすら丹念に描かれる。読んでいて相当気持ちが悪かったし、つらかったけれど、読むのが止められなかった。強烈に影響を受けもした。
とは言え、色川さんは優しい人なんだろうなあと思う。エリック・ホッファーの『波止場日記』みたいに肉体労働者が仕事後にうだうだ言っている世界とこの「狂気」は紙一重だけれど、多分ホッファーさんほど強烈に向かえる何かを持たない一労働者が、「誰とも分かり合えない」という気持ちを抱え、それでも痛いくらいに他者に向かう気持ちが諦めきれないとき、こうした狂気という形を取るしかないのだろう。現代ポストモダニストパワーズとかオースターとか僕とか)がこういう小説を書くと、ただのナルシシズム、とひとことで済ませられるんだけれど、色川さんみたいな人だとそうも言えないしなあ、と思う。
 
昨日は師匠と差別について議論。均質性・純粋性を求める(彼の言葉で言う)ナショナリズムは「他者」を排除した純粋な存在(innocent boy)を理想像とし、それに同一化しようとする。ポスト構造主義以降の我々(っていうか男の子)は、そうしたナショナリズムを内面化しつつ「差別」は批判しなければいけないため、次のどちらかの戦術を採るしかない。
①「弱者」に配慮することで他者の他者化を正当化
 (「女に優しい」という意味での「フェミニスト」が典型)
②愛の名の下に洗練されたセクシズムを行使
 (「僕は君を愛しているから、君に「バカ」と呼びかけるときそれは”他の誰でもない君に”愛の一形態として「バカ」と呼びかけているのであって、「女」一般に対するヘイトスピーチではない)
 
僕としてはここに③他者を(拒否されるために)求める、という形でのナルシシズムを付け加えたい、みたいなことを言った。まあ①も②もナルシシズム(自己の同一性を守り・慈しむ営み)なんですけれど。こうしたナルシシズムがいかにペドフィリアを必要としたか、みたいなことを歴史的に言った研究があったら面白そうなのに。誰かやってください。