ハイナー・ミュラー「ハムレットマシーン」

Lisbon222007-02-10

ハムレットマシーン シェイクスピア・ファクトリー (ハイナー・ミュラー・テクスト集)

ハムレットマシーン シェイクスピア・ファクトリー (ハイナー・ミュラー・テクスト集)

痛みもなく、思想もなく。
OM-2公演「ハムレットマシーン」@日暮里サニーホールを見た。面白かったので、戯曲のテキスト読解とそれに比較したOM-2の演出で気になったところを数点。

ミュラーの革命に対する態度はアンビヴァレントだ。「悪こそが未来」に典型的に見られるように、彼は一方では全体主義的「帝国」を舌鋒鋭く批判する。だが彼は、革命にその転覆を賭けるほどナイーヴでもない。テキスト「ハムレットマシーン」は、その名のとおりシェイクスピアハムレット』を翻案としつつ、革命=「父殺し」が約束する未来もまた欺瞞に満ちたであることを詳らかにする。
そこにおいて鍵となってくるのが『ハムレット』においてしばしば指摘されるハムレットクィアネスだ。ホレーシオとのクィアな関係、或いは父への同一化に見られるハムレットクィアネスは、「父に成り代わって堕落した母を罰する」というプロットを「母を通じて父とつながりあう」という筋書きへと変える。ミュラーのテキストに戻れば、その冒頭において「かつてハムレットだった者」は既に死んだ父(国父)を再度殺し、その妻=母を「処女に戻して」(「その穴を縫い」)、父の死体の破片をなすりつけた上でレイプする。国父殺害、そして歴史の母を再度懐妊させる「革命」を象徴化するこのシーンは、だが、ひとたびハムレットクィアネスに目を向ければ母の肉体を通じた父との性交に他ならない。そこにあるのは、革命の殺害の対象である権力者への同一化の欲望に他ならないのだ。

ミュラーはこうした(オイディプス的)革命神話を拒絶する。かくして「かつてハムレットだった者」は言う。「私は女になりたい」。「私はマシーンになりたい。痛みもなく、思想もなく」。自分の内部に、自身の身体器官の一部になりたいという彼/女の(誰もにドゥルーズ思想を思わせる)言明は、最終的にオフィーリアに同一化した上で「(歴史を)胎内に戻してから堕胎する」というショッキングな言明に至る。言い換えれば、「女になりたい」ハムレットは、「子供を生む女」にはなれない以上、ある種のサイボーグ(ハラウェイ的には人間と機械と動物の中間の生命体)として生きることを選択する。かくして革命の「否」をも信用しないミュラーは、最終的に歴史の究極的な拒絶=生まれなかったことにすることを(どこかの国の大臣の発言をもじるなら)「生まない機械」の形象に託すことになる。

OM-2の公演の方は、こうしたミュラーのテクストを(歴史認識の問題から)より生政治化したものとなっている。マシーンである、ということはかの有名な「to be, or not to be」というジレンマへの答え(の拒絶)として現れてくるのだ。
その為テキストとの違いは山のようにあるのだが*1、ここでは二点だけ。

①母の胎内へと暴力的に立ち返り、雌雄分裂以前(あるいは「人間」以前)への象徴的回帰を行うシーン。
ハムレット(だった者)は母の胎内に見立てたゴミ袋の中で女装し(「女になり」)、消火器を自身のペニスに見立てて放出=射精し、女装のままゴミ袋から出て「マシーン」となる。ここで彼が「女になる」際、消火器の重曹を白粉がわりに利用しているということは面白い。言うまでもなくこの重曹とは母の胎内にぶちまけられる父の精液のメタファでもある。彼が「女になる」ことは、他者による性的搾取を甘受する(「周辺部」へ向かう)だけでなく、それに依存することをも意味する。
言い換えれば、彼は女にはなれない。それは彼が女ではないからではなく、女になることとは、ここにおいて常に既に男であることを前提とするからだ。その結果、象徴的な母の胎内において、彼は父であり子であり、同時にそのどちらでもない。彼は射精するものそのものであり、かつそれによって生まれるものでもあるからだ。また同時に彼は男であり女でもあり、同時にそのどちらでもない。ファルスを持つはずの彼は女装をすることで象徴的にファルスを失い、更にその喪失を消火器によって象徴的に補うからだ。彼はファルスを持ちかつファルスであり…。

ハムレットクィアネスが関係性として描かれず、徹底的に存在論として描かれている。
これにより、『ハムレット』においてハムレットが「男でない」ことは、「女になりたい」こととその失敗、そして必然的に「マシーン」(サイボーグ)であることとして描かれる。
ミュラーのテクストではオフィーリアへの同一化を吐露しホレーシオと抱擁を交わすハムレットだが、ここでは「女になりたい」にまつわるシークエンスは全て彼の一人舞台となる。すなわち「マシーンである」ことはここではより端的に存在論的な問題として─男でも女でもないサイボーグとして生きる、と言うか、端的に「在る」こととして現れる。

かくしてハムレットの再解釈を行うミュラーの再解釈を行うOM-2は、最終的にそれを在るべきか、在らざるべきか、という存在論の問題へと回帰させる。全体的な権力の下、搾取され続けることしかできず、革命もまた権力者への同一化でしかないとき、我々は果たして「在る」べきか「在らざる」べきか?無論答えは「在る」しかない。だがその「在る」―マシーンとしての「在る」―は我々が知る「在る」とは異なる可能性を秘めた「在る」だ。「生まない機械」として、「痛みもなく、思想もなく」(生きる、とはもういえないので)、ただ「在る」こと。自身がエイリアンでしかありえないという現実(the Real)を誰より十全に受け止め、「在る」こと。OM-2の再解釈は、(ミュラーを脱歴史化していると批判されているようだけど)ある意味でシェイクスピアに極めて忠実なものであるように思う。
 

*1:例えば開演数分間全く何も起こらず、「本日の演劇は全て終了しました」との放送が流れたり、逆に終幕においてはオフィーリア以外にも革命で命を落とした若者らが亡霊として蘇ったり