Happy New Year!
Dec 30 Pm3@Albright-Knox Art Gallery
一週間遅れのクリスマスプレゼントを探してるうちに、美術館にたどりつく。ピカソ、デ・クーニング、ポラックあたりやシュールレアリスムのコレクションで有名なこの美術館は、2時間でさらっと見るにはあまりに充実しすぎていました。ここにいるうちは何度でも来ようと思う。
…結局プレゼントは買えず、恵比寿の写美でも買えそうなものでなんとなーくお茶を濁したのは内緒です。
Dec 31 Pm7@友人宅
友人の彼氏が料理を作る、というのでお呼ばれする。
彼は日本に留学経験のある韓国系アメリカ人とのことで、から揚げと寿司と年越しそばを振舞ってもらう。僕はパウンドケーキを焼いていきあした。
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以上、生存報告を兼ねた近況報告でした。
今年は去年よりもっと面白くしたいと思います。まる。
ゆきが ふったよ!
夜中に降り出した雨は朝方に今年二度目の雪へと変わり、午前中はちょっとした吹雪だった。昼過ぎにはやんで、写真を撮った時点ではだいぶとけてしまったのが残念…けど、すぐにもう雪はいいやとなるんだろうなあ。
作業が一段落したので、夜はちょっとがんばってビーフシチュー(部屋が暗く写真が今ひとつなのが悲しい)。
飴色になるまでいためた玉ねぎに、ニンジン・ジャガイモ・セロリ・ブロッコリーと牛肉の順に加えて弱火でいためる。ある程度火が通ったら水を加えて、ローリエ・ローズマリー・乾燥バジルを加えてくつくつと煮込む。沸騰しそうになったら白ワインを入れ、あとはごく弱火で煮込み続ける。
同時に別のフライパンでは、熱したバターに小麦粉を入れて焦げ付かないようにかき混ぜつつごく弱火で炒め、こげ茶色になったら、だまにならないように少しずつ水を加えてブラウン・ソースを作っていく。これを直接スープに入れると馴染まないで絶対にだまになるので、鍋のスープを少しずつすくってソースにいれ、ちょっとずつ馴染ませていく。
ブラウン・ソースが完全にスープに溶け込んだら、塩胡椒をして、少しだけ固形スープの素をいれ、飲み残しの赤ワインを入れて、あとはひたすら弱火で煮込む。隠し味に1、2滴醤油を入れると日本人好みの味になる…気がする。
バゲットを焼いて、久しぶりにゆっくりとした夕飯。幸せ。
彼女は美しかったか否か?
人権の授業の帰り道、とつぜんに下北の(スペルの間違った)ビレバンに行きたくなって、初めてひどく日本がなつかしくなりました。仲のいいひとといっしょに、階段を下りて入り口左手のマンガコーナーから入って、文学コーナーを素通りして、意味のわからないティッシュ箱カバーにわらい、写真集を冷やかし、飛び出す絵本にきゅんとしたい。
今週はJacqueline Roseによる"Belief"という講演がありました。アレントのナチズム論、カーモードの"The Sense of an Ending"、それからフロイトのシュレーバー症例をつなぎながら、全体主義の心的政治に切り込もうというのが講演の主眼でした。まだwork in progressのようで、じゃっかん結論が弱い観がありましたが、ともあれ、きわめて刺激的な経験でした。
期末ペーパーの発表が始まり、ヴィクトリア朝文学と19世紀アメリカ文学と人権と精神医学についてのゼミおのおののビブリオ作りでわたわたしているので、しばらくは本の話はおやすみです。
まいにち朝はひどく霜がおりていて、たぶん再来週までには雪が降り始めるだろうとのこと。自転車通学もそろそろおしまいかもしれません。
11/13ついき:
はてなフォトのテスト。画像は一週間前の昼食、ケイジャン・ピラフと野菜の煮物…だとおもう。
さいきんは入手できる調味料の関係から中華三昧です。バッファローはアジア系が多いので和の調味料も手に入るんですが、値段が三倍くらい違うので。手に入るものは意外に手に入るんですけどね。豆腐とか四丁くらいで1.5ドルとお安いですし。しかし中華の料理酒や酢を使ってるとどうしても和の味にならないので、キクラゲを買ってムーシーローを作ったりしてます。これからは料理ブログにしよう。
20101023
夜になるとすでに外気が0℃以下になります。一番の問題はタバコがひどくまずいことです。タバコ吸いのひとはわかると思いますが、タバコは外気との温度差が激しかったり勢いよく吸いすぎると、燃焼しすぎていがいがした味がするのです。対策考え中。
The Second Treatise of Government and A Letter Concerning Toleration (Dover Thrift Editions)
- 作者: John Locke
- 出版社/メーカー: Dover Publications
- 発売日: 2002/08/14
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(読書メモ)
Derrida, Jacques. "Declarations of Independence."
独立宣言の署名は、すでに確立した自由の陳述的言明という形をとったパフォーマティヴな行為である、という基本テーゼは、アーレントの論ずる、パフォーマティヴな行為としての自由(法的権利ではなく、個人にも集合的主体=ネイションにも拠らない、ナショナリズムなきネイションを可能にするような集合的な行為)を思わせる。エイジェンシーを持ちえず、代理/表象しかできないジェファーソンの「苦しみ」を指摘するのはデリダらしい。
趣味は研究会。
5年位前から、気の合う友人や先輩と研究会を開くことが一番の楽しみでした。
ということで、日々のコースワークでいっぱいいっぱいにも関わらず、昨日はGraduate Group of Queer Studiesの初回ミーティングに参加してきました。今年は(予算がいくらでるか不明なので)他研究会と合同で外部からゲスト・スピーカーを招くか、できなければ読書会を行う、ということで話が落ち着きました。あとすでに決定事項としてこの冬は他大から研究者を招いて講演をする、とのことで、楽しみです。
Compassion Fatigue: How the Media Sell Disease, Famine, War and Death
- 作者: Susan D. Moeller
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V.S.ナイポール講演@バッファロー
pm8 @Kleinhans Music Hall。*1
バッファローの地元文化財団の招待でV.S.Naipaulが講演をするというので、院の講義(ヴィクトリア文学:前回に続きGaskell, Mary Bartonなので割愛)のあと自転車でダウンタウンまで出かけてきた。
舞台袖からステージ中央の椅子まで、奥さんに手を取られてゆっくりと歩いてきたナイポールは、僕の持っていたイメージに比べひどく年老いて疲れて見えた。低く、ゆっくりとした声でしゃべり始めると、すぐに何を話そうとしていたか忘れ、それをジョークにする姿もどこか痛々しかった。
講演は三部構成で、1)A House for Mr.Biswasの朗読、2)新作The Masque of Africaについてのインタビュー、3)来場者の書いた質問用紙への応答という順に進められた。以下、新作のインタビュー(本当は一問一答だったのだけど、簡単にナイポールの答えだけまとめて)と質疑応答の抜粋を、手元のメモをもとに簡単に紹介したいと思う*2。ポスコロについて関心がある人は最後のふたつの質問を面白く思うのではないでしょうか。
(新作についてのインタビューまとめ)
新作The Masque of Africa: Glimpses of African Beliefを書いたのは、かつてアフリカを題材にしたものを書いてから時間がたち、自分が書いたものに疑問を抱き、別のやり方で書くことができないかと思うようになったからです。
タイトルに"Belief"とありますが、私が関心を持っているのはフォーマルな宗教ではなく、(人々の生活と土地に根ざした)"earth religion"とでもいうべきものです。たとえば日本では、フォーマルな宗教である禅[仏教]と同時にearth religionとしての神道が共存しています。私はそうしたあり方に関心を持ちつつアフリカを書こうと思いました。そうすることで私はアフリカを経済・政治的問題からではなく、別の、より抽象的で本質的な真実を書こうと思ったのです。
たとえば、アフリカ的考えとして、この厳しい土地で生きていくために強いエネルギーが必要だ、というものがあります。こうした考えはたとえばウガンダでは木を中心的メタファとする信仰システムと深く結びついています。私はロマンティックな人間ということもありこうした考えに個人的共感を抱いています。
(会場質疑応答)
Q. あなたはフィクション/ノン・フィクションと種々の方法で書いてきましたが、ある本をどのスタイルで書くかはどうやって決めるのですか?
A. 書こうとするもののアクチュアリティと、それをどうしなければならないか、という問題意識からです。フィクションを書くことはどうしても嘘をつくことであらざるを得ません。私は旅を通じて得た経験に対し、この経験をどうするか、これをいかなる形で物語るかを考えてきました。[Lisbon注:新作は小説ではなくインタビュー等を通じた人類学風エッセイのようです…未読ですが]
Q. あなたはかつて小説は世界をその複雑性のまま表象する良い方法ではないかもしれないと述べたが、今もそう思いますか?
A. ええ。あらゆる芸術は生きもので、その形はつねに変化し、とどまることがありません。文学史を見ればすぐにわかることです。ところが200年前にできた近代小説は、基本的に同じ形の反復でしかありません。芸術の形式は新しいもの(何が新しいのか)の歴史であるべきなのです。[Lisbon注:近代小説という形式はある種の袋小路にある、ということでしょうか]
Q. A House for Mr.Biswasにおいて、Mr.Biswasは独立のアレゴリーですか?
A. ええ、今読めばそうなのですが、あれを書いたときは26歳くらいでイノセントだったので何も考えていなかったと思います。
Q. 厭世家ですか?
A. そうは思いません笑。
Q. かつてガンジーに触れつつ、貧困をロマンティサイズすることを批判しましたが、『スラムドッグ・ミリオネア』についても同じように思いますか?
A. なんですか、それは?映画?映画は見ないのです。しかし、ええ、今も貧困をロマンティサイズすることには強く反感を持っています。
Q. 僕はインド系アメリカ人です。僕のような人は現代でもふたつの文化に引き裂かれていると思いますか?P.S.あなたは僕の叔父に似ています(会場失笑)
A. これを書いた人は文化に引き裂かれてはいませんね。自己愛が強すぎるんじゃないでしょうか。[Lisbon注:まじでこんな調子で言っていました。会場爆笑]
Q. あなたの家族には物書きが多いのですが、お互いの書いたものについて意見交換等しますか?
A. いいえ、しません。母は私が書いたものを読んだことすらないんじゃないかな。インタビュー等が来るのはうれしがっているようですが。
Q. あなたの人生は旅の繰り返しですが、どこか"home"だと感じる国か街はありますか?
A. いいえ、ありませんし、"home"だと感じる場所がある必要があるとも最近は思いません。若いころは自分の国を持っていたらいいと思っていたのですが、最近は意見が変わってきているのです。
Q. グローバリゼーションについての質問ですが…
A. (質問をさえぎって)私は(グローバリゼーションのような「大きな」問題については)何も考えられません。私が考えることができるのは個々の具体的な状況だけです。*3
個人的な感想としては、冒頭に書いたように思いがけないナイポールの「老い」を目の当たりにして、正直ショックでした。あと話の途中ナイポールが言葉に詰まったとき、奥さんが舞台に上がり、かつて彼は書きかけの小説の原稿をキッチン・テーブルに置いたままヴェネツィアに旅行に行ってしまった、と突然暴露したのはちょっと笑った。講演後はせっかくなのでミーハー根性丸出しでサインをもらいにいったのですが、サインの横に奥さんがシリアル・ナンバーを書き込んで、複雑な思いをしました。
The Masque of Africa: Glimpses of African Belief (Borzoi Books)
- 作者: V.S. Naipaul
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あなたを囲むように地面に円を書いて、またがずに外に出られますか?
あなたを囲むように地面に円を書いて、それをまたがずに「外」に出られますか?
この有名な論理クイズの答えは、「外」の定義を変えればいい、というものだ。普通に考えたら、あなたは円の「中」にいる。でもその円をどんどんどんどん大きくして、これが地球の円周よりも大きくなったらどうなりますか?円は(あなたから見て地球の反対側に)、今度はどんどん小さくなって、しまいには対蹠点の周りの小さな円になる。だから、あなたの周りにあるその円の中心をあなたから見て地球の対蹠点と「定義」してしまえば、あなたはその円の「外側」にいるのです!
このほとんど詭弁のような議論が示すのは、
・「あなたは自分の周囲に書いた円をまたがずにその外側に出られない」
という命題について、
1)その各要素(「あなた」「円」…)の意味はわかりながらも真偽が「わからなく」なる状況があるということ
2)そしてその状況においては「わからない」ということが唯一の「正しい」答えだ、ということだ。
…以上の説明はぼくが理解する限りでの日常言語学派的テーゼだと思うのですが(間違っていたら訂正ください)、これを発展させると「ある発話の意味を問われたらそれをゆっくり繰り返すしかない」というウィトゲンシュタインにたどり着き、それは批評用語では形式と内容の不可分性という話になる。
The Senses of Walden: An Expanded Edition
- 作者: Stanley Cavell
- 出版社/メーカー: University of Chicago Press
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Walden: Lessons for the New Millennium
- 作者: Henry David Thoreau,Bill McKibben
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問題はCavellの議論自体は日常言語学派というメタナラティヴとどういう関係にあるのか、つまり「メタ言語によって言い換えをすることができないものが偉大な文学だ」というCavell自身はソローに対するメタ言語ではないのか、というあたりで教授と議論。それはさながらJ.L.オースティンをいかに読むかをめぐるデリダ対ウィトゲンシュタインの闘いであった・・・!